イタリアから英国へ|ポルシェ911の歴史における重要モデル、2.5 S/Tの現在【後編】

Photography:Aston Parrott

この記事は「ポルシェ911史の「影の立役者」、2.5 S/Tの魅力を解き明かす【前編】」の続きです。


世界選手権としては最後の開催となった12カ月後の1973年タルガ・フローリオにもカプラとレプリは参戦。この年、アルファが2台のT33/TT/12を投入すれば、フェラーリも2台の312PBをエントリーして応じた。うち1台はメルツァリオと地元ヒーローのニーノ・ヴァカレッラが、残る1台にはブライアン・レッドマンとジャッキー・イクスが搭乗した。ところが、クレイ・レガツォーニはプラクティス中のアクシデントでアルファの1台を大破。残る1台もランチア・フルヴィアと絡んでコースアウトを喫してしまう。さらにフェラーリの2台もリタイアしたため、栄冠はポルシェ911カレラRSRを駆るジィズ・バン・レネップとヘルベルト・ミューラーのものとなった。そしてカプラとレプリは"0721"で総合12位と健闘してみせたのである。

奇妙なことに、記録によればふたりは2000ccクラスで優勝したことにもなっている。おそらくこれは、排気量2ℓ以上の車に課せられる高額の税金から逃れるため、カプラが2ℓ以下の排気量で登録していたことと関係があるのだろう。1971年のコッパ・インター・ヨーロッパに参戦するために用意されたエントリーフォームには、"0721"のエンジンは排気量が2381ccであると記されていたが、その後のどこかの時点でより大きなタイプ911/73ユニットに換装されたと見られている。しかし、役所への届け出は1991ccでなされていた。何らかの操作がおこなわれたのは間違いないだろう。

カプラは、当局がこれに気づかないことをひたすら願っていたはずだ。なにしろ、S/Tは当時、いつも2000ccオーバー・クラスに参戦していたからだ。これ以外で彼が小さな排気量でエントリーしたことがわかっているのは、タルガ・フローリオの2週間後に開催されたモンツァのGTレースのみである。1973年6月23日に開催されたボルツァーノ-メンドーラ・ヒルクライムでは再び2000ccオーバーのクラスで出場しており、このときは9分56秒で3位の成績を残している。

カプラは"0721"で当時人気の高かったイタリアのヒルクライムに数多く出場しており、しばしば好成績を挙げていた。たとえば1972年にはヨーロッパ・ヒルクライム選手権の一戦として開催されたトレント-ボンドーネに参戦。ウェットコンディションでおこなわれたレースでは911が圧倒的な強さを示し、シルヴァノ・フリソリはマーチF2に乗るグザヴィエ・パロットを退けて総合優勝を勝ち取ったほどだ。

いっぽうのカプラは16分35秒70で走りきり、2000ccオーバー・クラスで4位の成績を獲得。同じ年にはコッパ・アルペ・デル・ネヴェガル、ボルツァーノ-メンドーラ、アゴルド・フラッセネといったヒルクライムレースにも出場した。

翌年も同様に多忙で、ヒルクライムやサーキットレースにエントリーしたが、1974年にカプラは911 2.8 RSRを購入。またもレプリと組んで、国内選手権となったタルガ・フローリオで総合6位と健闘した。特筆すべきは、カプラが1990年代まで国際レベルの競技に出場し続けたことにある。しかも腕前は落ちておらず、70歳を過ぎて出場した1994年パリ1000km(この年はBPRグローバルGTレースの一戦として開催された)では5位に入った。

カプラが手放した"0721"は、スクデリア・パラッディオのメンバーであり、ヴィチェンツァの北側に位置するコスタビッサーラからやってきたアントニッロ・ゾルダンに譲り渡された。1974年から75年にかけて、ゾルダンはイタリア国内のラリーにポルシェで参戦。このとき、エンジンはまだ2.5ℓ仕様だった。彼は70年代から80年代にかけてポルシェを愛用し続け、何台もの911を駆ってイベントに出場。1976年と1978年にはラリー・ディ・サンマリノで優勝する快挙を成し遂げている。

編集翻訳:大谷 達也 Transcreation: Tatsuya OTANI

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