現存していること自体が奇跡!ワークスチームがレース参戦したポルシェ「718-004」の物語|蜘蛛のひと噛み【前編】

Alex Tapley

有名かつ戦歴豊富なレーシングマシンについて、まるでキーボードのゼロが固着入力されたかのような、価値(高価格)を専門家が耳元で囁いても、そのようなノイズからは耳を塞いで頭をクリアにしたほうがよい。そうすると純粋に車として車両の美しさ、運転したフィーリング、そしてエグゾーストノートと向き合うことができる。ノイズはノイズでも、違うノイズだ。

「エンジンの回転数を少し下げてもらうか、加速を抑えてもらえませんか」

と私にいうのは、ヒストリック・ポルシェをエンスージャストに提供するスポーツ・パーパス社のジェイムズ・ターナーだった。718RSKが奏でる、美しくもせわしない水平対向4 気筒エンジンの排気音のボリュームが、試乗場所であるビスター・ヘリテージ(イギリス王立空軍跡地)の騒音規制に引っかかってしまうというのだ。空軍跡地なだけあって周囲には何もなく、ビスター・ヘリテージ自体「古い車、バイクそして飛行機のスペシャリスト、職人達の"村"」として、スポーツ・パーパス社を含むショップが軒を連ねているのだが…、ルールはルールだから守ることにするほかない。  

右足の力を緩めるには、もうひとつ理由があった。精緻にセッティングされたポルシェ・オリジナルのDOHCエンジン(通称、フールマン・エンジン)は現存していること自体が奇跡的で、私がブローさせるわけにはいかない。昨今、ポルシェはケイマンやボクスターのターボチャージャー付き水平対向4気筒エンジンで"718"の名称を復活させた(正式なコードネームは982)。いうまでもなく、オリジナル718の名声にあやかろうとしているのだ。



元ワークスカー、"718-004"

1950年代から1960年代初頭にかけて、ポルシェは小型で似通ったデザインの3種のスポーツレーサー、550ARS、718RSK、RS60を投入している。いずれも顧客がレースをするために開発、販売されたものだ。この頃、まずはプロトタイプを製作してワークスチームがレースに参戦し、レースで得られた知見を生産部門にフィードバックして、市販に移されるという一連のフローがあった。  

ここに紹介する718RSKはワークスチームがレース参戦した1台、"718-004“だ。ワークスチームに割り当てられた718RSKのシャシーナンバーは002~006だった。プロトタイプが001だったことは容易に想像がつくが、実は最初期のプロトタイプには"718-1"という番号が割り当てられていたとは面白い。

2台のプロトタイプは、フェルディナント・ポルシェがビートルのために考案したフロント・サスペンションに似たトーションバー式であった。ただ、従前のトーションバーがシャシーを横断するように取り付けられていたのに対して、2台のプロトタイプではクロスメンバーを斜めに横断する配置で、上から見ると"K"の字を描いていた。718RSKの"K"はこのサスペンション形状が名称の由来で、後にポルシェが用いたテールの短さを意味する"K(kurz)"ではない。  

プロトタイプ2台は1957年半ばに組み立てられたが、技術陣が望むような足回りにはならなかった。「ハンドリングが神経質」という評価が下り、1958年に生産された002~ 006(当該の004は5月に完成)では、サスペンション形状が変更された。フロントはトーションバーを一般的な配置に戻し、リアはスイングアクスルを進化させたものを採用した。リアは、ロアアームとダブルジョイント・ドライブシャフトのジオメトリーが、まるでダブルウィッシュボーンのようなセッティングとなった。トーションバーは廃され、軽量スペースフレームにコイルスプリングとダンパーを組み込み、軽量なアルミパネルで覆われた。  

ワークスカーのフロントノーズはやや長い。特筆すべきは、このボンネットの裏側にはオイルパイプが張り巡らされており、パネル自体がオイルクーラーの役割を担っていたことだ。車両左側のサイドシルにダクトが設けられているのは、ここにもオイルクーラーを備えている証で、ワークス車両でしか見られない装備であった。



勝利の女神から見放された"718-004"

1958年6月、ポルシェはル・マン24時間に2台の550Aと3台の718RSK(003、004、005)で参戦した。004はカーナンバー30をまとい、ドイツ人ジャーナリストでレーシングドライバーのリヒャルト・フォン・フランケンベルクと、フランスのラリー・チャンピオン、クロード・ソトレズがステアリングを握った。現在、004は550Aと同じ1498cc(85× 66mm)エンジンを搭載しているが、ル・マン24時間では2リッタークラスで戦うために1587ccユニットを搭載していた(訳注:66mmのストロークを引き継ぎ、ボアを87.5mmに拡大)。だが、718-004が勝利を収めることはなかった。嵐が吹き荒れるウェットコンディションにおいて004はエンジントラブルに見舞われ、やがてフェラーリによって、コース脇の土堤防に押し出されてリタイヤに終わった。ほかの718RSKは健闘し、718-005で参戦したジャン・ベーラとハンス・ヘルマンは2リッタークラス優勝ならびに総合3位、718-003は総合4位、そして550Aは総合5位とポルシェ勢が並んだ。

718-004がいいかに女神に見放されていたのかと思わせるのは、翌月、004にとって2戦目となった、全長12kmにもおよぶフライブルク・シャウインスラント・ヒルクライムでのことだった。ポルシェ・ワークスドライバーのエース、エドガー・バルト(同年のル・マン24時間では003をドライブ)が木に激突して車両は大破。ちなみに、バルトは前年の同ヒルクライムでは550Aで、翌年は別な718RSKで優勝を飾っている。  

004は修復の過程において、限界時における挙動を安定させるために、フロントトレッドを40m広げ、同時にフロントボンネットに設けられていたオイルクーラーは、フロントノーズに移設された。これは1959年から生産を開始した顧客向けの718RSKと同じものだ。

004は9月には復活し、後にF1に参戦したオランダ人ドライバー、カレル・ゴディン・ド・ボーフォールがベルリン郊外のアヴス・サーキットを走った。ド・ボーフォールは速かったが、出走カテゴリーにおいてエンジンがホモロゲーションを受けていないことが発覚して失格。次のレースはオーストリアのインズブルック空港でのレースで、ポルシェのチームマネージャー兼PR部長を務めていた、フリッツ・フシュケ・フォン・ハンシュタインがステアリングを握った。1678ccのエンジンを実験的に搭載しての参戦だったが、ハンシュタインがレースを走りきることはなかった。



11月後半、ジャン・ベーラが718-004をニュルブルクリンクでテストしていたことは分かっているが、詳細は不明だ。そして1959年はじめに、当該718RSKはポルシェで活躍することなく、ハンガリーの貴族で第二次世界大戦後にアルゼンチンに渡ったアントン・フォン・ドーリー伯爵に売却された。同年、3月にはセブリング12時間の1.5リッタークラスに参戦したところを見ると、放出に当たってオリジナルのエンジンに戻されたようだ。ドライバーはフォン・ドーリー伯爵、伯爵の弟とアルゼンチンのF1ドライバー、ロベルト・ミエレスの3名だった。レースではカムシャフトが破損し、レースは2時間でリタイヤした。ワークスを離れても、再び見放されたようだ。

そうした718-004に転機が訪れたのは、4月のデイトナ1000kmでのことだった。ガス欠寸前に陥り、ピットレーンまでショートカットをしたことでペナルティを受けたにもかかわらず、フォン・ドーリー伯爵とミエレスは圧勝した。フォン・ドーリー伯爵は、ポルシェのラテンアメリカにおける代理人を務めていた人物でもある。

【後編】に続く。

編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation: Takashi KOGA (carkingdom)
Words: John Simister Photography: Alex Tapley

古賀貴司(自動車王国)

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