あわや存続の危機!?1100台以上の埃まみれの眠れるコレクション、現在の様子は?|マーイ・コレクション【中編】

Wouter Rawoens

この記事は「3世代にわたって1100台以上を収集した一家の眠れるコレクション|マーイ・コレクション【前編】」の続きです。



1970年代になると、健康上の問題と石油危機で、ギランの精神状態は不安定になり、長年の信頼関係が壊れて、ビジネスも行き詰まった。トヨタやフィアットとの取引は消え、やがてはディーラーを手放し、貴重な数台も人手に渡ることとなる。

アクスルスタンドまで見事に当時のもの。何世代もこのままだった。

一家は1970年にハウトハーレンに博物館をオープンしたが、その後も、さらに長期的な保管場所を探し続けていた。そして、レオポルド2世が建設した展示場のワールドパレスに230台を収蔵し、こうして、1986年にオートワールド・ブリュッセルが誕生した。

残りの750台は、ウィンターサーカスやヘントの廃工場、ゾーメルゲムの倉庫で埃をかぶっていたが、ギランの健康状態がさらに悪化する中、イヴァンがルーズ・アン・エノーに古い織物工場を見つけた。自走できる車はなかったため、60km離れた新施設へコレクションを移すのは、軍隊式の一大作戦となった。

ギランが1999年に死去すると、イヴァンがコレクションを受け継ぎ、保管のために非営利団体を設立した。その後も危機的状況は続いていたが、これを変えたのが孫のミシェルだった。ミシェルはそれまで、収集だけを目的にした父や祖父のやり方に批判的だったが、自身のディーラーを売却して、マーイ家のコレクションを守るために時間と資金をすべて注ぎ込んだのである。その過程で、ドラエやマセラティ・インディなど130台を売却したことで、父イヴァンとの間に亀裂が生じ、以来、二人は口をきいていない。

一部を売却したとはいえ、貴重な逸品がすべて消えたわけではない。鮮やかなブルーと赤褐色のポルシェ356プリAや、地面に吸い付くようなアラードP2モンテカルロ、アストンマーティンDB2コンバーチブル、ドラエ135M、ファセル・ヴェガHK500、珍しいオブラン製ボディのドラエ、ブガッティ“ブレシア”、アルファ6C SS、極めて希少なVWタイプ14Aがある。

ベルギーのビール会社、フィンダーエールの宣伝用バン。1959年オペル・ブリッツをベースにしており、ツール・ド・フランスでお馴染みの光景だった。醸造所が閉鎖された1991年に入手。

また、ギアやヴォワザン、アミルカー、タルボ・ラーゴ、ドラージュ、ホルヒ、タトラ、BMW、マセラティ(1954年A6Gアッレマーノ)、ランチアなどの希少モデルのほか、ミネルヴァ、モシェのサイクルカー、フィアットの飛行機、1959年オペル・ブリッツをベースにしたビール宣伝車といった珍品や、1960年フィアット2100ヴィオッティ、モーリス・バダローのM.B.N 501、ビュシェC2など、聞いたことのない車もある。無名のものからエキゾチックなものまで、実に多彩でユニークな、不思議に写真映えする車の宝庫だ。

各地を巡ったことを物語るドラージュD4/8-100アンテムの窓。当初はサーカスが所有し、その後、イギリスの青年たちが夏の長距離旅行に使い、ついに壊れた。

黄金のライオンがあしらわれたホーンボタン。マーイはこのアウトウニオン1000SPクーペを1977年に二束三文で購入した。

“バーンファインド”がエンスージアストにもてはやされているだけに、ミシェルはレストアはせずに、一部を売却してさらにコレクションを増やし(主にヤングタイマーを)、いずれは全車両を一般に公開したいと考えている。試験的に行われたヘントでの展示を考えれば、大変な成功が期待できそうだ。


【後編】では、膨大なコレクションの中から1954年マセラティA6G 2000 GTアッレマーノ、1948年ドラエ135MSギア・エーグルなどを紹介する。


翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA
Words: James Elliott Photography: Wouter Rawoens

翻訳:木下 恵 Words: James Elliott Photography: Wouter Rawoens

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