伝説のチューナー謹製|たった1台のダットサン240Z「Gノーズ」スーパーサムリ

Reverend Pixel

伝説のダットサンチューナー、スパイク・アンダーソンがたった1台だけ作った“Gノーズ”スーパーサムリ240Z。この車のステアリングをマーク・ディクソンが握り、アンダーソンに馴染みの場所を訪ねた。



40年前、世の中は今とは大きく違った。ストリートレーサー、ダットサン240Zスーパーサムリの生みの親、スパイク・アンダーソンは1981年10月、2番目の妻、クララと結婚した。婚姻届け提出した門出に、仲間からは相応な“見送り”を受けたという。

「婚姻届けを提出した役所の外に8台のスーパーサムリが停まっていて、15マイルほど離れたレセプション会場までは必然的にレースとなり、かなり危険だった」と、アンダーソンは自伝で回想している。シルバーストン・サーキットの関係者がA5(国道)のダヴェントリー・ジャンクションでたまたま見かけたらしく、モッズスポーツレースより壮観だった、と振り返っている。なお、“記録”としてはGノーズ(日本では“エアロダイナノーズ”とも呼ばれる)・スーパーサムリに乗ったロン・コリンズが勝者であったという。

長いGノーズはこのスーパーサムリだけの特徴。

つまり今回の特集には、ある意味でレースのヒストリーがあるのだ。ベッドフォードシャーの農家でオースチン・ヒーレーのレーサーでもあるコリンズこそが、Gノーズを持つ240ZGでスーパーサムリ製作を依頼した張本人であった。全74台のスーパーサムリが製作されたなかで、唯一のGノーズである。後にアンダーソンとの親交が深まり、友人となった人物でもある。

スパイク・アンダーソンの回想


「ロンはお酒が好きでしてね」とスペイン在住28年目となるスパイク・アンダーソンが電話口で語ってくれた。

「彼はとても社交的な性格で、よくシルバーストンのクラブハウス・バーに居ましたよ。ある夜、飲み過ぎた彼は自宅に帰ると言ってGノーズに乗って行きました。しばらくすると、ロンが戻ってきたではありませんか。そして、もう一杯頼んでいましたよ」

もちろん今日、このような行動は許されないが…、そんな信じられない時代が事実としてあったのだ。そして当時、悪魔のような精神を体現していたのはマイケル・リチャード・“スパイク”(刺々しい)アンダーソンだ。彼の自伝『Samuri, the Ultimate Evolution of the Datsun 240Z(サムリ、ダットサン240Z究極の進化)』は本誌執筆陣の一人、ポール・ハーディマンとの共著で、死を覚悟した“冒険”の数々が綴られている。そしてアンダーソンによると、本に書かれたことはほんの一部だという。

アンダーソンは自伝のタイトルからも察しがつくように、ダットサン240Zの改造“スーパーサムリ”で名を馳せた。もともとアンダーソンは1970年からラルフ・ブロードが率いる「ブロードスピード」で、シリンダーヘッド加工とポート研磨のキャリアをスタートさせ、文字通り何千個も手掛けてきた。ブロードスピードがBRMからV12F1エンジンの仕事を断ったとき、アンダーソンは独立を決意し「レースヘッド・サービシズ」を設立した。

アンダーソンはブロードスピードからレミントンスパに程近いハーバリーという町に引っ越した。同地にてロン・コリンズが所有していたGノーズの現オーナー、ポール・マスと合流することにした。一緒にアンダーソンに馴染み深い場所を巡るとともに、かつてアンダーソンがテスト走行を繰り返した道も走ってみることに。ハーバリーはアンダーソンが最初のスーパーサムリを手掛けた場所で、ナンバープレートは「FFA196L」だった。1973年7月、ジャーナリストのクライヴ・リチャードソンがモータースポーツ誌とモータリング・ニュースのために試乗してから、アンダーソンのビジネスはいっきに軌道に乗った。

「スーパーサムリ」の名前の由来


それにしても「スーパーサムリ」とは不思議な響きである。実はイギリス英語風にSAMURIを読むと「サムライ」という響きを持つ。本当はサムライと名付けたかったのだが、日本のラジオ・メーカーが既に商標登録していたことと、アンダーソンや看板屋もサムライの正しいスペルを知らなかったからSAMURIとなった、という逸話がある。この記事内であえてサムリと表記しているのは、このミススペルを強調するためだ。

リアバンパー“レス”がカムテールっぽさを演出。

なお、サムリ第一号車は1年落ちのダットサン・サニー1200クーペだった。アンダーソンはサニーのシリンダーヘッドを交換し、ツインSUキャブレターを装着し、エグゾーストは“直管”にしたほかローダウンさせて派手なペイントを施した。この時既に240Zのポテンシャルの高さに目を付けていたアンダーソンはFFA196Lを新車で購入し、同様のチューニングを施した。ただ、240Zではキャブレターにはトリプルウェーバーを用いたほか、外装はオレンジとブロンズの特徴的なカラーリングとした。雑誌に試乗記が掲載されると、チューニングを希望する車両オーナーたちからアンダーソン宛に電話が頻繁にかかってくるようになった。同年、10月までには10台のスーパーサムリ“チューニング”を手掛け、社名も「サムリ」に変えた。

アンダーソン本人と彼が最初に手掛けた240Z“FFA196L”

さらに追い風になったのは、ウィン・パーシーという新進気鋭のドライバーから「ヒルクライムとロード用のスーパーサムリを作ってくれないか」とアンダーソンに依頼が舞い込んだことだった。アンダーソンは、パーシーのドライバーとしての能力に非常に感銘を受けた。その後、モッドスポーツ用に「ビッグサム」と命名した240Zを製作した際、パーシーにレース参戦を依頼したほど。そして、ビッグサムと“FFA”がポルシェ勢を抑えて、クラス・チャンピオンに輝いた。

アンダーソンのショップは、ハーバリーのダヴハウス・レーンに建っていた。頻繁にショップを訪れていたのはパーシーという名の地元住民だった。

ダヴハウス・レーンはスパイク・アンダーソンにとって初の自分のショップを構えた地。

「パーシーは今ではリタイヤした高速道路交通警察隊員で、酸いも甘いも知るいい人でしたよ。何ガロン、私のコーヒーを飲んだことか」とアンダーソンは笑いながら語った。

「ハーバリーからサウザム/レミントンに下る道には高速のダブル・シケインがあって道幅を目いっぱい使うと、時速100マイルを下回ることなく通過できたんです。ある日の早朝、“FFA”でこの道を爆走中、なんと250ccBSA(いわゆる白バイ)に乗ったパーシーが反対方向から来るではないですか!万事休すと覚悟を決めましたが、なぜかおとがめなし。翌日、パーシーは“そんなに急いでどこに向かってたんだい?”と聞くので“バンバリー”と答えておきました。すると“あのダットサンのハンドリングは凄いね!”と。そんなやりとりで事なきを得ました」


・・・【後編】に続く


編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation: Takashi KOGA (carkingdom)
Words: Mark Dixon Photography: Reverend Pixel Archive images: courtesy of Spike Anderson

編集翻訳:古賀貴司(自動車王国)

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