連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.27 チシタリア202SMM ヌヴォラーリ

T. Etoh

黎明期の自動車の世界は色々な人々が複雑に絡み合い、思いもよらぬ人の名前が思いもよらぬところに出て来るものだとつくづく感じることがある。

チシタリア202SMMヌヴォラーリにはまさにそんな人々の繋がりを感じるヒストリーがある。チシタリアは Consorzio Industriale Sportiva Italiaの頭文字C、I、S と最後のイタリアを繋ぎ合わせた名称であることは、読書の皆さんには周知のことだろう。そしてそのチシタリアを創業したのがピエロ・ドゥジオであることもご存じだと思う。ドゥジオは元々サッカープレイヤーで、なんとユヴェントスでプレーした経歴を持つことはあまり知られていないと思う。その後今度はレーシングドライバーに転身し、ミレミリアなどにも出場。そして1944年になると今度はレーシングチームを創設。これがチシタリアの原型である。

チシタリア最初のモデルはD46と呼ばれるモノポストレーサーで、これを設計したのはフィアットに在籍していたダンテ・ジァコーザであった。彼はトリノ工科大学を卒業後、フィアットの航空エンジン部門に配属された。ジァコーザは余暇を使ってD46を設計したそうだ。D46は1946年シーズンを戦いそれなりの成功を収めたが、その勝利に飽き足らなかったドゥジオはさらなる飛躍を求め、次に開発を進めたのがチシタリア360だった。設計はフェルディナント・ポルシェである。フロントエンジンのD46と比べ、360はミドシップ、スーパーチャージャー付きフラット12、1.5リッターエンジンを搭載し、しかも4WDという当時としては飛び抜けて画期的なマシンであったのだが、あまりにも高価であったことが災いして結局レースには出場せず、幻の車に終わっている。

グランプリカーを開発する傍らで彼が手掛けた次のプロジェクトが202の開発であった。最初に完成されたのはクーペスタイルのレーシングカーで、その名も202CMMという。CMMはクーペ・ミレミリアの略で、フェンダーがボディと完全に一体化された革新的なデザインを持つモデルであった。そして1947年のミレミリアにはこれとは別にオープンボディとされた202SMM(スパイダーミレミリア)がデビューする。



202という車はフィアットベースの1.1リッターエンジンを大幅にブラッシュアップし、ドライサンプのオイルシステムとアバルトのツインキャブレターやインテーク、エクゾーストシステムを装備した結果、パワーは60psとオリジナルのほぼ2倍の出力を得ていたという。ボディをデザインしたのは当時チシタリア・テクニカルディレクターであったジォヴァンニ・サヴォヌッツィが手掛けたものと言われる。サヴォヌッツィはダンテ・ジァコーザと同じくトリノ工科大学出身で、フィアットの航空機部門に就職するところまでジァコーザと同じ道を歩んだ。意見の相違から1948年にはチシタリアを辞して一時カロッツェリア・ギアのテクニカルディレクターを務めた後、1957年からクライスラーに転職。そこで、タービンカーの開発に従事した。また、チシタリア202のボディを製作したのは当時のピニンファリーナ。ロードバーションのクーペボディをデザインしたバッティスタ・ピニンファリーナは、革新的フラッシュサイドのデザインを構築し、その車、チシタリア202は今もニューヨーク近代美術館の永久展示品としてディスプレイされているものである。また、ピニンファリーナは僅か11歳の時から板金工として腕を磨いていたアルフレッド・ヴィニアーレに目をつけ、1930年にピニファリーナ工房に招き入れる。そして1946年に最初のチシタリア202プロトタイプを完成させたのは板金工であったアルフレッド・ヴィニアーレであり、後に彼はカロッツェリア・ヴィニアーレをオープンさせるのである。

話は1947年に戻る。チシタリアはこの年、4台のワークス・チシタリアをミレミリアにエントリーさせた。2台のクーペと2台のスパイダーである。そのスパイダーバーションの1台をドライブしたのがタツィオ・ヌヴォラーリであった。彼はすでに呼吸器の病に侵されていたとかで、健康状態は決して完全ではなかった。実に211台ものマシンがエントリーし、このうち150台がスタート。8カテゴリーのクラス分けがされて、本命は3リッター以下クラスのスポーツカーカテゴリーに参戦するモデルである。ここにはアルファロメオのワークスが6C2500SSや8C2900等をエントリー。さらに2リッタークラスにはマセラティやランチアが大挙出場していた。そうした中で僅か1.1リッターの小さなマシンにもかかわらず、ヌヴォラーリのチシタリアはレース序盤から大排気量3リッタークラスのアルファロメオと互角以上の戦いを続け、なんとトップを快走。しかし、モデナのチェックポイントでイグニッショントラブルに見舞われタイムロス。しかしそれでも果敢に追い上げたヌヴォラーリは3リッタークラスのアルファロメオを相手に総合2位、クラス優勝を果たすのである。この結果をリスペクトし、以後202SMMにはその末尾にヌヴォラーリの名前が冠せられることになるのである。



この202SMMは28台生産されたと言われているが、いわゆるコンペティションスパイダーの生産は21台にとどまり、その他のモデルはより大人し目の仕様に仕立てられているという。ロッソビアンコの博物館のそれは、コンペティションモデルの1台だが、それが1947年のミレミリアに参戦したモデルか否かは定かではない。因みに1947年のミレミリアに参戦した4台のうち3台は、総合2、3、4位にそれぞれ入賞。残りのピエロ・ドゥジオ本人がドライブしたマシンはリタイアに終わっている。




文:中村孝仁 写真:T. Etoh

中村孝仁

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