1965年ル・マン24時間レースで、フェラーリ250LMは伝説的勝利を手に入れたのか

1965年ル・マン24時間レース

1965年ル・マン24時間レースでの250LMの勝利は、今もなお論議の種になっている。とりわけ3人目のドライバーが優勝に貢献したかどうかに疑問が残っているのだ。

真実は神のみぞ知る……だろうか?

1965年のル・マン24時間は、その長い歴史の中でも伝説的なレースとして語り継がれている。というのも、それはプライベートチームが、大金をつぎ込んだフォード軍団を打ち破ってフェラーリの名誉を守った物語であり、同時に手品のようなトリックを使って逆転勝利を手に入れたのではないかと囁かれる疑惑のレースでもあったからだ。 1965年はル・マンに向けて準備をする段階でも数々の出来事があった。ロイド"ラッキー" カスナーが4月のル・マン・テストデイで事故死、同じ月にはスクデリア・フィリピネッティの365P2で最速だったトミー・スピシガーもモンツァ1000kmでクラッシュして亡くなっている。レース本番ではGT40MkⅡに乗るフィル・ヒルがポールポジションを獲得したが、その背後には5台の250LMが続き、包囲網を敷いていた。その中で最も早かったのはマステン・グレゴリーとヨッヘン・リントが駆るNART(ノース・アメリカン・レーシング・チーム)の一台だった。

ルイジ・キネッティ率いるNARTは、それに加えてフェラーリ365P2をペドロ・ロドリゲスとニーノ・ヴァッカレラに委ねていたが、6月19日土曜日午後4時に決勝がスタートすると、たちまち予想通りGT40軍団がレースをリードした。しかし、それは長く続かなかった。トランスミッショントラブルがフォードの挑戦を台無しにしたからだ。夜が訪れた頃にはフェラーリが上位6 位を独占、NARTの250LMは日曜の朝には3位に上がっていた。 気温が上がったせいで過酷なレースとなり、日曜の昼の時点で生き残っていたのは51台の出走車のうち14台のみ。トップはピエール・デュメイとギュスターヴ・ゴスリンのフランス/ベルギー人コンビによる250LM、すでに本家マラネロのワークスカーは姿を消しており、NARTのLMは2位だった。

リントのラップタイムはデュメイを上回っていたとはいえ、そのまま彼らがおとぎ話のような勝利を勝ち取るのではないかと見られた。だが、そこでリーダーがつまずく。ミュルサンヌ・ストレートを全速走行中にトップのLMがパンク、デュメイは何とか立て直してピットに戻るが、応急修理の間に5周を失ってしまった。このアクシデントによってリントとグレゴリーは栄冠を手に入れ、キネッティもドライバーとして獲得していたル・マン3勝に、エントラントとしての一勝を加えることになった。

しかしながら、レースそのものも色々と取沙汰されてきた。現代のル・マンは全力のスプリントを最後まで続けるようなレースだが、かつては車を何とかなだめすかして最後までもたせるのが肝心であり、戦略だった。そして250LMのトランスミッションは壊れやすいことで有名だったのである。そこで出てくるのが様々な"通説" だ。ある者はリントとグレゴリーは自分たちの車がリタイアするものと信じており、それなら長引かせる必要はないと手加減しなかったと主張する。またある者は正式ではないアメリカ人ドライバーが優勝車を運転した疑惑を語る。経験豊富なスポーツカードライバーであるエド・ユーガスが、ずいぶん後になってから夜間の運転を受け持ったと語った一件だが、この発言は優勝車の失格にもつながりかねないので、うやむやにされている。彼を知る自動車史家たちは、エドは自慢のためにホラを吹くような人物ではないと言うが、そうでない人たちの間ではNARTの勝利にどのように関わったのかについて議論されているのだ。ユーガス自身の証言以外には彼が運転したという証拠はないが、それにもかかわらず、それが事実として載っている有名な書物も少なくない。

その年、NARTの一員としてチームに加わっていたルイジ・キネッティ・ジュニアの言葉は有力な証言だろう。「それはちょっと信じがたい話です」と彼は言う。「まず、グレゴリーとリントが車を壊そうとしたという話はナンセンスです。もしそんな兆候があったら、父は彼らを許さなかったでしょう。マステンはそれ以前にも我々のチームで戦っており、彼がル・マンの勝利を熱望していたことは良く知っています。あの頃のル・マンがどれだけ偉大なレースだったかを忘れてはいけません。もちろん今も偉大なレースですが、60 年代には、インディ500とモナコGPに並んでドライバーがどうしても勝ちたい3大レースのひとつだったのです。だから早く家に帰りたいなんて、まったく理解できません」

「私たちの車がフェラーリの中で最も勝つ見込みがなかったことは本当です。LMのギアボックスは常に問題で、それを24時間持たせたチームメンバーは素晴らしい仕事をしたと思います。ユーガスについては、私は彼が車の中にいるのを見た覚えがありません。私は長いことピットにいましたが、彼がレーシングスーツを着たのさえ見たことがない。私が覚えている限り、彼はマネジャーとしてチームに加わっていました。父はユーガスが運転したことについて一度も話したことはありません。他の人も同様です。どんなことも絶対とは言えませんが、もしそうなら父は何か言っていたはずです」

「マステンが夜に運転したくなかったからユーガスが代わりに乗ったという説はどうでしょう。確かにマステンはメガネをかけていましたが、夜間のレースに出たことは何度もあります。1972年のル・マンでは私と一緒にデイトナで出場しましたが、LMほどではなかったかもしれませんがきわめて速かった。その際も夜の運転についてまったく文句を言っていなかった。そんな程度です」

証拠がなければ何事も存在しないというわけではない。だが、"第3の男" がNARTの勝利に貢献したという伝説を真実と断定するには裏付けが必要だ。ただし、本来それよりもっと語られるべきなのは、250LMによる1965年ル・マン制覇ではなく、それ以降フェラーリが一度も勝っていないことなのである。


デュメイとゴスリンの250LMがバーストしたタイヤを交換するためにピットイン。これで5周を失い、1965年ル・マンの栄冠はNARTがエントリーしたグレゴリー/リント組のLMにさらわれた


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