レース界を明るく照らす、ロブ・スロートマーカーという男

octane UK

レースに生きたといえる男は世界に何人でもいるが、ロブ・スロートマーカーはそれだけでなく、レース界を明るく照らし出すような人物だった。だが、周囲の望みと較べたら、彼の生涯はあまりにも短かった。

ロブ・スロートマーカーは、威厳を持ってトラブルに立ち向かっていく男として知られていた。治安判事の息子だったこともあって、その性質は生まれつきだったのかも知れない。そしてサーキットのコースにひとたび躍り出たら、彼についていける者は少なかった。戦闘機乗りとしてキャリアをスタートしたが、成功を収めたのはレースの世界だったのだ。

彼が生まれたのは1929年、オランダ領インドネシアの首都バタビア(現ジャカルタ)だった。スロートマーカー家は、第二次大戦を強制収容所で生き抜き、戦争が終結するとオランダに強制送還された。ロブ・スロートマーカーは、父親と同じ法律の道ではなく、戦闘機のパイロットになることを選んだ。訓練のためにアメリカに渡り、そこで飛行の合間に夢中になったのは、オンボロのビュイックでタイヤのグリップレベルを追求することだった。オランダへ帰国した後も、フォルケル航空基地の凍った滑走路で見事なスライド走行を見せてはパイロット仲間を楽しませた。

低空でのスタント飛行で謹慎処分を受けると、スロートマーカーの関心は完全に車へと傾いた。レースへのデビューは1954年で、フォード・ゼファーを駆ってモンテカルロ・ラリーに参戦。続いてDKW でザントフォールトでのレースも経験した。1950年代半ばに空軍を退職すると、スリップ時の対処法を中心とした、高度なドライビングテクニックを教えるスクールを開校した。

レーシング・チーム・ホランドが1964年に設立されると、ポルシェ904のドライバーをベン・ポンとスロートマーカーが務めることになった。ポンは出資もしていたため、1−2になった場合はポンが1位になるという合意が交わされていた。ところが彼はモンツァでその合意を破り、間もなくチームを去った。

その後もスロートマーカーは生涯を通してレースを続け、才能の許す限りさまざまなカテゴリーに手を広げた。一度限りではあったが、F1にも挑戦している。エキュリ・マールスベルゲンのポルシェで、1962年のオランダグランプリに出走したのだ。DAF が画期的な無段階変速機のヴァリオマチックを擁してフォーミュラ3に進出すると、そのドライバーも買って出た。また、1968年ロンドン−シドニー・マラソンでは、DAF 55で17位完走を果たしたが、途中でコドライバーのロブ・ヤンセンと仲違いする場面もあった。助手席のドアを貫通する穴がその証拠だ。スロートマーカ
ーは、助手席に座るヤンセンの肝を冷やしてやろうと、停車していたトラックにぶつけたのである。

若いレーシングドライバーにとっては、道を照らし出す存在だった。彼を慕ったドライバー達の中で傑出していたのが、ヴィム・ロースとヤン・ラマースだ。ロースがスパで事故死したのは、フェラーリF1チームのテストが決まった矢先だった。スロートマーカーは、ラマースがF1キャリアを始められるように、自宅を2度目の抵当に入れた。そのかいあって、ラマースがシャドーでF1デビューを果たす姿を1979年に見ることができた。

マシンコントロールの腕だけで数々のアクシデントを生き延びてきたスロートマーカーだったが、その年の9月16日、彼をアクシデントが襲った。ザントフォールトで行われた小規模のツーリングカーレースに、シボレー・カマロで出走。路面のオイルに足を取られてスリップし、うまく立て直したものの、運悪くそこに止まっていた別の車にぶつかり、衝撃で首の骨を折ってしまったのだ。まだ50歳だった。

ザントフォールト・サーキットは、そのコーナーにスロートマーカーの名を冠している。

編集翻訳:嶋田 智之 Transcreation:Tomoyumi SHIMADA 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Mattijs Diepraam

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