ラリー界の巨神 エリック・カールソン│早すぎる引退の理由とは?

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その巨体を小さなサーブの中に押し込んで、幾多のラリーで勝利を収めたエリック・カールソンは、ラリー界では初めてのスーパースターであった。

初戦を除いて、彼のキャリアはすべてサーブとともにあった。「1回だけフォルクスワーゲン・ビートルを試したことがあったが、クラッチが壊れてしまってな」と2012年に語っている。穏和なスウェーデン人ドライバーが見あたらないなか、RACラリーでの3勝とワークスドライバーとしてのモンテカルロでの2 勝により、カールソンはレジェンドになった。

カールソンがモーターレーシングで成功を収めたのは二輪で、1947年に初期のノートン数台でレースに参加し初めた。その後、彼は五強のひとつといわれたSMKトロールハッタンチームに参加し、徴兵されるまでの3年間に渡ってレースに参戦している。除隊してからはノートン社のインポーターとして働いていたが、このころラリードライバーのペレ・ナイストロームに師事し、1952年には彼のコ・ドライバーとしてラリーに出場している。



1952年、故郷のトロールハッタンに戻ったカールソンは、中古のサーブ92を入手してドライバーとしてデビューした。彼の積極果敢な戦い方は、当初から目立っていた。右足がバルクヘッドに埋まるほど強くスロットルペダルを踏み込みながら疾走し、バンプ越えの際には高くジャンプした。

あまりにハードなドライ
ビングゆえにバッテリーの結線が緩み、ペールグリーンに塗られたサーブはパワーを失ってスピンし、後ろ向きに生け垣境界を超えながら庭園に突っ込んだこともあった。後年には、彼はこのエピソードを軽やかに歌う様に話すのが好きだった。いつも最後に"That is how it was. Ya, ya.(やっちまったよ、うん、うん)"と語っていた。そうしたアクシデントにもかかわらず、完走できたこと、クラス優勝したことも言い忘れなかった。

4年後、カールソンはサーブのファクトリードライバーに迎えられた。スチュワート・ターナーと参加した1960年のRACラリーでは、初のハットトリックを達成した。だが、その偉業はイベントの数日前の事故による激痛を抑えながらのドライビングで得たものだった。スコットランドの狭い田舎道を走っていたときで、道幅いっぱいの大型トラックをギリギリで避けた際、借りていたモーリス・マイナーを横転させてしまった。

ターナーは無傷だったが、カールソンは傷を負い、
のちに彼の妻となるパット・モスとアン・ウィズダムが、ふたりを近くの医師のところまで車で運んだ。だが、カールソンは何時間も待たされたあげく、診断を受けずに帰ってしまい、ターナーは薬局を見つけると絆創膏をカールソンの体に貼りまくってラリーに出走した。カールソンがあばらの骨折に気づいたのは、後になってからだった。

カールソンのやる気満々のスピリット、鋼鉄のような強い自信、絶えることのないスタミナに感動し、彼を慕うファンが世界中に何百万人も生まれた。



「時間があるときには、コ・ドライバーと私は、ラリ
ー中でもシャワーと髭剃りを欠かさなかったよ。それに服装にも気をつけた。車内でもさっぱりした様子でいる必要があったからね。それもレースの一部さ。誰かがたいへんだと文句をいったら、俺たちはそれがもっと困難でもっと長く続けばいいといってやる。どんなに悪い状況だと思っても、ニヤっと笑って耐えるのさ」と語っている。

1962~63年のモンテカルロ・ラリーでカールソンが優勝し、1963年と64年のリエージュ・ソフィア・リエージュ・ラリーで連続して2位に入ったことを彼は自分の最高の成果だと感じていた。「リエージュ・ソフィア・リエージュは群を抜いて一番タフなラリーだったよ。100時間走るのに休憩は1時間だけなんだ。それに私たちがいつも運転していたのは、最も小さいエンジンの車だったから」と彼は語った。

パット・モスとの結婚後、1963年にカールソンはイギリスに移住した。それでもサーブへの忠誠心は固く、イギリスのチームからの誘いを断るほどだった。スチュワート・ターナーがBMCのコンペティション部門のマネジャーになると、親友のカールソンをBMCに引き抜こうと試みた。親友に乞われ、同年にアイルランド・サーキットで行われたワンメイクレース用ミニのテストに参加してしたが、実際に出場することはなかった。また、フォードとの複数年契約の話があった時には、サインのペンを手に取る前にスウェーデンのサーブに電話をせずにはいられなかった。その際、サーブの担当者は泣きながらカールソンに残ることを嘆願したという通説がある。結局、1967年に第一線のキャリアを退くまで、彼はサーブに留まった。



彼が早すぎる引退を決断したのは、レースへの情熱が冷めたわけではなく、腰痛の持病ゆえにラリーを続けられなかったからだった。だが、1969年のバハ1000に参戦して大いに楽しんだ様子だった。カールソンのサーブV4をドライブしたスティーヴ・マックイーンがクラッシュさせ、スクラップにしてしまった。

「車の中であれほど怖かったことは今までなかった。
やつはクレージーだったよ」と語っている。カールソンはその翌年も参加したが、それを最後に本当にリタイアし、サーブの移動大使として世界中を飛び回った。明るく陽気なエリック・カールソンはすべての意味において、業界の巨人だった。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:東屋 彦丸 Translation:Hicomaru AZUMAYA Words:Richard Heseltine

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