日本を代表する工業デザイナー、奥山清行氏の生い立ちから現在まで|「ケン・オクヤマ」の命名エピソードも披露!

KEN OKUYAMA DESIGN

Ken Okuyama(ケン・オクヤマ)。言わずとしれた世界的な工業デザイナーでありカーデザイナーであり、かのエンツォ・フェラーリのデザインを手掛けた人物としても名高い。現在はKEN OKUYAMA DESIGNのCEOとして、自動車はもとより、さまざまなライフスタイル関連製品のデザインなど、多岐にわたる活動を精力的に展開している。

ケン・オクヤマ氏のバイタリティの源はいったい何なのだろうか。過日、ヴェテランカークラブ東京でおこなわれたトークショーでオクヤマ氏の幼少期からのエピソードを伺ったことで、彼の活動の原点が見えてきた。



山形で養蚕や土木業を営む家庭に生まれた奥山少年は、幼い頃からとにかく絵を描くのが好きだった。本人の言葉を借りれば「生まれる前からの天才。地元の天才少年」だったという。夏休みの宿題でポスターを提出すれば毎年のように県知事賞を受賞、美術の授業では教わる側ではなく先生の助手として活躍したほどの天賦の才能の持ち主である。

幼少期の奥山少年のスライドを前に、懐かしそうな眼差しのオクヤマ氏。

そんな奥山少年が初めて描いた絵は、車の絵だった。車の絵を描くのは実は非常に難しい。同様に難しいのは馬の絵だったという。車と馬。少年時代の思い出の片鱗を辿るだけで、奥山少年が将来、プランシングホースに関わる兆しが見えてくるようだが、この時点ではまだカーデザイナーという職業を意識していたわけではなかった。

高校に入ってからも、絵を描く日々は続いた。当時交際していたガールフレンドには、デートのたびに絵をプレゼントしていたという。彼女の似顔絵や、一緒に出かけた場所の風景などを毎日のように描いて贈ったそうだ。なんとロマンチックな少年だろうか。

家業の農作業を手伝いたくないという一心で、高校時代は美術部と水泳部を兼部して部活に打ち込んでいたという奥山少年。しかし現在、ケン・オクヤマとして携わっている領域をみると、農業や建設分野にも多く関与していて、自身のルーツを大切にしていることが伺える。

大学受験で「人生初の挫折」を味わい、卒業後に「人生初のジェラシー」を感じた


“地元の天才少年”が初めての挫折を味わったのは大学受験だった。志望していた大学への入学が叶わず、武蔵野美術大学へ。なかば不本意ながら入学したという武蔵美であったが、同期にはイラストレーターのみうらじゅん氏を始めとした個性的な面々が揃っていた。奥山青年は、そんな仲間から刺激を受け、親交を深めながらデザインの基礎を学んだのである。

卒業後、世界的デザイナーとして羽ばたく日がすぐにやってきたかというと、人生はそんなにイージーなものではない。大学を卒業した奥山青年は、具体的なビジョンもないままに“なんとなく”アメリカへ渡ろうと、格安航空券を片手にロサンゼルスへとひとり向かった。

初めての海外。初めてのアメリカ。飛行機に乗るのも初めてである。乗継地のホノルルでのハプニングを乗り越えて、ようやくロサンゼルス空港に到着したら、誰も迎えに来ていなかった… これが奥山青年のアメリカ生活の始まりだった。

カリフォルニア州のアートセンター・カレッジ・オブ・デザインを初めて訪れたときのこと。自分と同世代の若者たちが、目を真っ赤にしながら真剣にデザインをひき、クレイを削っている姿を目の当たりにした。ここで奥山青年は、生まれて初めて、そして人生最初で最後となるジェラシーを感じた。天才少年ともてはやされた自分が知らない、敵わない世界がそこに広がっていたのだ。

“なんとなく”向かったアメリカだったにもかかわらず、こうして目標はすぐに定まった。猛勉強を重ねた奥山青年は、渡米後半年ほどでアートセンター・カレッジ・オブ・デザインの門をくぐることとなる。

「ケン・オクヤマ」の命名秘話


さて、ここで登場するのが「ダイアン先生」。この人物こそが、「ケン・オクヤマ」の名付け親である。「Kiyoyuki」は発音が難しく、どうしても「カイヨキ」のような発音になってしまう。これでは名前が呼びづらい。そこでダイアン先生は考えた。「カイヨキ… キヨ… ケン… よし、君の名前はケンだ!」 その間、わずか3秒ほど。この瞬間に「ケン・オクヤマ」が誕生したのだ。オクヤマ氏は「そこから運勢がよくなった気がします」と当時を振り返って笑う。

アートセンター・カレッジ・オブ・デザインでは、車のデザインのみならず、設計や経営学まで含めて、文系理系を問わない総合的な授業が実施される。この学校でのエピソードで興味深いのは、奨学金を出すためにゼネラル・モーターズの役員自らが、学生ひとりひとりのポートフォリオをじっくり見て選んでくれるということ。当時はチャック・ジョーダン副社長がその任に当たっていた。ここでの出会いもひとつの大きな転機である。オクヤマ氏はここで奨学金を得て、卒業後はゼネラル・モーターズへ入社することになる。

ゼネラル・モーターズで最初に手掛けたプロジェクトはシボレー・カマロ(4代目)。オクヤマ氏としては「この部分は、もっとこうしたかった」「当初の意図よりも大きくなりすぎた」という心残りがあるプロダクトだというが、この経験によりデザインとボディサイズの相関関係を身をもって学ぶことができたという。

会場となったヴェテランカークラブ東京のクラブハウスには多くのメンバーが集った。

その後、オクヤマ氏はポルシェへ移籍し、2年間で911(996)の基礎を作った。いわゆる涙目のヘッドライトが特徴の996は、水冷モデルとしてポルシェの新時代を切り拓いたモデルであり、その後のSUVやボクスターに繋がる重要なモデルであったことは間違いない。



ポルシェ在籍時代の思い出としてオクヤマ氏は、「デザイナーもポルシェに乗るんです」と意外なことを教えてくれた。カンパニーカーとしてポルシェに乗り、レーシング講習も受け、雪が降れば「ちょっと乗りに行こうぜ」とカレラ2でドリフトの練習に連れ出される。設計者ではなく、デザイナーが、である。

ポルシェでは「ポルシェはポルシェ博士がデザインしたもの。デザイナーは、そのビジョンを“ポルシェらしく”具現化する」という哲学があるのだという。デザインセンターはヴァイザッハにある開発センターの真ん中にあるため、仕事の最中でもブリッジへ行けばテストコースを走る車の挙動を見ることができる。設計者ではなく、デザイナーがドライバーの心理や車の挙動まで理解していることは、仕事をするうえで非常に重要だ。理解しているからこそ、たとえばピラーの角度や太さにまで配慮することができるし、機能にそぐわない不要なものをつけることもないからだ。

1990年代後半以降のオクヤマ氏のピニンファリーナでの活躍については今さらここで述べるまでもないだろう。エンツォ・フェラーリ、フェラーリ612スカリエッティ、マセラティ クアトロポルテなどを手掛けたことはあまりにも有名である。

ペンを手に取り、エンツォのスケッチをサラリと描くオクヤマ氏。この姿を見られるだけでもトークショーに参加した価値はある。

これらのスケッチは、オクヤマ氏のサインを入れて来場者へプレゼントされた。サプライズのプレゼントはもちろん争奪戦に。

マセラティ クアトロポルテのヘッドライトの形状に注目。当初の構想では、横長にする予定ではなかったのだという。

独立し、KEN OKUYAMA DESIGNを設立してからもオクヤマ氏は活動範囲を拡大。その勢いは留まるところを知らず、いまや電車やトラクター、ボート、家具、眼鏡、食器、カトラリー、時計など、人々の暮らしを支えるもの全般にわたっていると言っても過言ではない。

地域と人に密に寄り添い、豊かなライフスタイルを提案する


冒頭で記したオクヤマ氏のバイタリティの源と活動の原点について、今回のトークショーで感じたことを筆者なりにまとめると、「山形」と「人」に集約されるのではないかと思う。

故郷の山形にファクトリーを構え、家業であった農業、建設関連のプロダクトや、故郷と東京を結ぶ新幹線のデザインまでも手がける。ダイアン先生につけてもらった名前でずっと活動し、GMのチャック・ジョーダン副社長が学生ひとりひとりに丁寧に接する姿に感銘を受け「教育とは人を育てるもの」と今でも心に刻み、実践する。オクヤマ氏に兄貴肌の風格が備わっている所以も、そこにあるのではないだろうか。

Ken Okuyama最新作は8月に北米でお披露目


もちろんカーデザイナーとしても多くの「kode」シリーズを発表し続けている。kode7、kode9、kode0、kode57… どれもひと目でケン・オクヤマのデザインだとわかるものだ。今夏発表する新型モデルもすでに準備は万端だ。8月22日にアメリカ・モントレーのべブルビーチで発表される最新作が、今から待ち遠しい。


文:オクタン日本版編集部 写真:オクタン日本版編集部、ヴェテランカークラブ東京
Words: Octane Japan Photography: Octane Japan, Veteran Car Club Tokyo

オクタン日本版編集部

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