連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.7 マセラティ・ティーポ151/ 3 LMクーペ

T. Etoh

レーシングカーは時として数奇な運命を辿る。このマセラティ・ティーポ151もそんな1台である。1962年のレースシーズンに向けてマセラティはこのティーポ151を3台制作した。与えられたシャシーナンバーは002、004、006で、このうち002はマセラティ・フランスチームに引き渡され、残りの004と006はアメリカのブリックス・カニンガムチームに引き渡された。いずれのモデルも1962年のル・マン24時間レースに参戦しているが、3台ともにリタイアに終わっている。

オリジナルのマセラティティーポ151(シャシーナンバー006)。この車の詳細についてはいずれまた別途。

マセラティがこの時代に成功を得られなかった最大の理由は資金難にあったようで、技術的には十分に優勝を狙える位置にあったといわれる。1961年のル・マンではカニンガムチームから参戦した3台のマセラティのうち2台が4位、8位に入り、将来のレースを期待するに十分なリザルトを残していた。こうして62年シーズン用として開発されたのがティーポ151だったというわけである。

マセラティ・フランスチームを率いるのは、自身もジャガーやマセラティなどでレースの経験がある元空軍パイロットにしてビジネスマンのジョニー・シモーネ。ル・マンのためにチョイスしたドライバーはルシアン・ビアンキとモーリス・トランティニアン。カニンガムチームの2台はウォルト・ハンスゲン/ブルース・マクラーレン、ディック・トンプソン/ ビル・キンバリー組であった。予選はトンプソンがポールポジションのフェラーリからは3秒遅れながら3位につけ、残りの2台も5位と8位でそのポテンシャルは十分。そして序盤はトンプソンが3位につけていたものの、スタートから6時間でリタイア。残りの2台も10時間目、13時間目でリタイアした。



ル・マンが終わった時カニンガムチームの2台はそのままアメリカに渡り、その後もアメリカ国内でレースを続けたが、フランスチームのマシンはモデナのマセラティに戻された。そこでエンジンをそれまでの4リッターV8から4.9リッターV8に換装し、併せて問題の多かった複雑なリアのドディオンアクスルも、より単純な機構のドディオンアクスルに作り直され、1963年のル・マンに臨むことになった。マシンは非常に速かった。スタートでドアが開かないというトラブルに見舞われたものの、その後驚異的な追い上げでトップになり、ジョン・サーティーズやペドロ・ロドリゲスのフェラーリを抑え込んで走ったのだ。しかし、またしてもトラブルに見舞われて4時間でリタイアの憂き目にあう。

この年はその後もレースに出場したが、完走したのはオーベルニュで総合8位に入ったのが唯一であった。ジョニー・シモーネは再び車をモデナに戻し、今度はより本格的な改良を加えることにした。002のシャシーは50mmホイールベースを伸ばし、トレッドも拡大。そしてボディはピエロ・ドロゴによる見事なカムテールを持つフラットルーフのクーペボディが架装された。余談ながらドロゴはあのフェラーリ330P3、P4、さらにはディーノ206Sなどのボディ制作も行ったカロッツェリア・スポーツカーの主である。

こうしてマセラティ最後のフロントエンジンレーシングカーが完成。新たに151/3と名付けられた。エンジンも新たに5㍑のV8が搭載され、マセラティのテストドライバーであるグェリーノ・ベルトッキはアウトストラーダ公道上のテストで最高速度315km/hを記録したという。



そしてル・マンを迎えた。ドライバーはアンドレ・シモンとモーリス・トランティニアンのコンビである。スタートこそマイナートラブルでつまずいたものの、トップスピードはミュルザンヌのストレートで310.2km/h、ドライブしたアンドレ・シモンはル・マンで初めてトップスピード300km/hを超えたドライバーとなった。一時は3位を走行したものの、またもトラブルに見舞われ、スタートから9時間でリタイアすることになった。



65年シーズンもマセラティ・フランスはこの車をル・マンに持ち込んだ。大径のガーリングディスクブレーキを装備し、エンジンも排気量の異なる2基の5リッターユニットが用意された。ル・マンのテストデイはこの車をロイド・キャスナーとマスティン・グレゴリーに委ね、まずはキャスナーのドライブでコースに向かう。しかし、路面が濡れたミュルザンヌのストレートでキャスナーはコントロールを失い、マシンはコースアウト。キャスナー帰らぬ人となった。勿論マシンは大破してしまう。



ロッソビアンコ博物館のティーポ151はまさにこのシャシーナンバー002のモデルなのだが、モデナのマセラティにあった当時の大破した残骸から復元し、新たなシャシーをドイツで作り上げ、必要なパーツをマセラティから調達して作り上げた忠実なレプリカである。因みにシャシーナンバー004はアメリカでナスカードライバーのマーヴィン・パンチがドライブ中にクラッシュ、焼失した。そして残る1台の006はロッソビアンコのピーター・カウスが所有していたが、今は売却され新たなオーナーの元にある。


文:中村孝仁 写真:T. Etoh

文:中村孝仁 写真:T. Etoh

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事