豪華なグループBカー7台が勢揃い|ラリー界のレジェンドが語る逸話

Peter Singh of Artcurial

ラリー界のレジェンド、ブルーノ・サビーが栄光のグループBマシンと再会し、ほとんど知られていなかった秘話と忘れられない思い出を語ってくれた。


グループBの何たるかが我々の目の前に並んでいる。グループBは最も神聖視され、かつ賛否両論が渦巻いたモータースポーツのカテゴリーだが、今なお、華々しい栄光と胸が引き裂かれるような悲しみとともに我々の心を揺さぶる。ごく短い期間だったにもかかわらず、グループB以上に眩く輝いたものはない。しかしながら、どんよりとした晩秋のブルターニュのロエアック・モータースポーツ・コンプレックスに勢ぞろいしたマシンは、にわかにはそう見えないかもしれない。

これらのグループBマシンは出版界の大物で、一時は自ら自動車製造にも乗り出したミシェル・オメルのコレクションである。彼はまたロエアックの「ル・マノワール・ド・ロトモビル」ミュージアムとこのサーキットを所有している。驚くべき7台のモンスターの顔ぶれは以下の通り。

ディディエ・オリオールが1986年のフランス選手権を制したMGメトロ6R4(ウィドネスのラリー・エンジニアリング・ディベロップメント・チームから参戦)にカルロス・サインツが駆ったルノー5マキシ・ターボ、元カレ・グルンデルのフォードRS200、そしてワルター・ロールが乗ったアウディ・クワトロのS1 に元ブルーノ・サビーのプジョー205T16、さらにひとつがいのランチア、すなわち元ミキ・ビアシオンのデルタS4 および元ファブリーツィオ・タバトンの037である。



しかも豪華なのは車だけではない。我々は特別なゲストドライバーを招いて、彼の全盛時代とグループBの思い出を共有しようと考えたのである。この信じられないコレクションは、間もなくパリのアールキュリアル・オークションに出品されることになっており(オークションに出品されたこれまでで最も重要なグループBカーのコレクションとなるはず)、これが一堂に会する最後の機会となった。



グループBカーの一群の中に立ち、その秘密と逸話を語るのにブルーノ・サビー以上に相応しい人間がいるだろうか?かつてのフランス・ラリー&ラリークロス・チャンピオンにして、パリ・ダカール優勝者、さらにランチア、プジョーそしてルノーのWRCワークスドライバーとして活躍したサビーは、長いキャリアを思い出して感慨に浸っているようだった。

もっとも、残念ながらすべての車が即スタート可能な状態ではなかった。1986 年コルシカで使われた"彼の" 205T16E2レッキカー(シャシーナンバー209)は、その後マティ・アラマキによって3年連続でヨーロピアン・ラリークロス・タイトルを制覇した車だが、静かに佇んでいるだけだった。

サビーにしても、その日すべての車を運転する時間はなかったが、プジョーを前にして彼のWRC初優勝の悲痛な記憶があふれ出てくるのを止めることはできなかった。

グループBカーを前にあふれ出る当時の悲痛な記憶

サビーとコドライバーのジャン‐ フランソワ・フォシーユは、あの日真っ青な地中海の空に立ち昇る煙に気が付いた。おそらくは観客か羊飼いが焚火でソーセージを焼いているのだろう。コルシカ島では見慣れた、ごく当たり前の光景だ。「そこに到着すると立木が燃えていた」とサビーは語る。「山火事か?だが九十九折の道を折り返すと、何が起きたかが目に入った」競技車は2分間隔のスタートだったので、彼らは悲惨な現場へ引き返すことができた。「車は爆発したかのようだった。我々の持っていた小さな消火器ではまったくなすすべがなかった。谷間にひっくり返った車の傍に降りる場所も見当たらず、何もできず、ただ子供のように泣き叫ぶだけだった」

サビーのプジョー205T16エボリューション2は、1986年トゥール・ド・コルスで首位のヘンリ・トイヴォネンを追いかけていた。その第2レグの途中で、ランチア・デルタS4は道を外れてしまったのである。トイヴォネンはスタート前から熱があって具合が悪そうだったが、スタートするやこの過酷なラリーで恐ろしいほどの速さを見せていた。コルスのコースは果てしないコーナーの連続で、しかもスペシャルステージの合計距離は1000km以上、これは他のWRCイベントの倍ほどにもなる。「ヘンリが疲れていることは知っていた」とサビー。「しかし彼がミスを犯したと考えたことはない。それにはいくつもの理由がある。おそらく走行中にすでに出火しており、多分それがパンクを招いたのかもしれない。あの事故についてはずっと疑問を抱いているんだ」

第2レグはその事故を受けて短縮されたが、ラリーは翌日も続行された。ショックを受けたドライバーたちは真剣な争いを放棄し、その結果サビーは14分もの、むなしい大差をつけて勝利を挙げた。「あの勝利を誇りに思ったことは一度もない。私のキャリアの中で最も困難な時期だった」と、現在に至るまで、彼は悲運のグループBの熱心な擁護者であり続けている。

トイヴォネンとイタリア系アメリカ人のコドライバー、セルジオ・クレストの死亡事故は、3人の観客が亡くなり、大勢が負傷した同年ポルトガル・ラリーの事故から2ヵ月もたっていなかった。ポルトガルでは、観客コントロールがまったく不十分だとしてワークスドライバーたちが出走を拒否する事態も起こっていた。それに対して迅速に行動したのが、ジャン‐ マリー・バレストル率いる国際競技の統括団体FISA(後にFIAに統合)だった。500psで車重が1トンに満たないグループBカーはあまりに速すぎ、あまりに先鋭的だとして、結局、そのシーズン末をもって禁止されることになった。

「私は善意からの行動だと考えている」とサビーはバレストルについて振り返った。「彼は私たちの安全について真剣に心配してくれた。あの種の車には安全という概念がなかった。まったくゼロだったんだ。私たちはそれを気にしていなかった。その余裕がなかった。リスクは承知していたが、それ以前よりもずっと大きな危険を冒していた。私はグループBが生き延びると信じていた。実際にバレストルに手紙を書き送ったんだ。プラスチックやカーボンファイバーの使用を制限したより安全なボディワーク、もっと強固なロールケージ、大型の消火器などについて。もちろん、決定は下されなければならないが、その決断は私には性急すぎたように思える。当時ラリーは大変に人気があり、そのまま続けられたらと望んでいたんだ」

サビーの失望と悲しみは時の流れによって幾分は和らげられた(加えて1988年にはランチアでモンテカルロを制した)。しかしながら、グループBの光と影を忘れることはない。

「ビデオでしか見たことのない若者たちでさえ魅了されている。そんな車をすべて一堂に会するんだから興奮しないわけがない」

シャシーナンバー227の元ビアシオン車、デルタS4はサビーのために準備万端整っている。まずはここから始めるとしよう。

【「ブルーノ・サビーが語る、激しく強く、儚く切ないグループBの物語」に続く】


編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA
Words:Paul Fearnley Photography:Peter Singh of Artcurial

編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: Paul Fearnley Photography: Peter Singh of Artcurial

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