ブルーノ・サビーが語る、激しく強く、儚く切ないグループBの物語

Peter Singh of Artcurial

グループBカーの一群の中に立ち、その秘密と逸話を語ってくれるのはブルーノ・サビー。かつてのフランス・ラリー&ラリークロス・チャンピオンにして、パリ・ダカール優勝者、さらにランチア、プジョーそしてルノーのWRCワークスドライバーである。

※この記事は「豪華なグループBカー7台が勢揃い|ラリー界のレジェンドが語る逸話」の続きです。


■S4でプジョーと対決

デルタS4はサビーのために準備万端整っていた。シャシーナンバー227の元ビアシオン車は、有名なマルティーニ・カラーではなかったものの彼にとっても馴染みの車である。グループBの突然の終焉を受けて、サビーはプジョーのダカールラリー・プログラムではなく(その後1993年に三菱でパリ・ダカール優勝を果たす)、ランチアへ船を乗り換えた。グループAデルタHF4WDおよびインテグラーレのワークスカーによるWRC出場は限られていたが、1988年のプログラムは充実していた。デルタS4で仏国内のラリークロス選手権に参戦したからだ。ブルーに塗られたS4は、ランチア本社とランチア・フランスのサポートを受けて、彼の地元のエキュリー・グルノーブル・スポールオートがエントリーしたものだった。

1988年、サビーはデルタS 4でラリークロスに参戦。この車はミキ・ビアシオンがグループB時代に乗ったものだ。



「ギ・フレケランと私が、まあ表彰台の常連だった。毎週末、彼が勝つか私が勝つか、そんな激しいレースを繰り広げた。最終ラウンドを私たちは同ポイントで迎えた」と彼は語る。「モンスターのようなグループBカーはその種のレースに適していた。もちろん、私はギのプジョーをよく知っていたが、ランチアも大変素晴らしかった。ボルメックス・スーパーチャージャーがターボを補完してくれたせいで、いつでもパワーが手に入った。私は5ターボで初期のターボエンジンを経験したが、その頃はどうやったらこんなエンジンでラリーを戦えるのか、と心配になったほどだった。ところが今や、アンチラグシステムのおかげでパワーのすべてを駆使できるようになった」

「結局ギが勝った。プジョーはさらに強力な"パイクスピーク"エンジンを積んできたんだ。あのレースではスタートが非常に重要で、彼は最初のコーナーでボンネット半分前に出ていた。その後はついに抜くことができなかった。私たちはいつも互いを尊重しており、時には言い争うこともあったが、いい思い出だ。私たちは皆レースが人を熱狂させることを知っていたからね」

サビーはその10年も前に同じタイトルを1.8リッター アルピーヌ・ルノーA110で獲得している(その前年はジャン・ラニョッティのA310に続く2位だった)。彼はラリーに一目惚れしたようなものだったが、経済的な理由と乗り物酔いのせいで、長く忍耐を強いられていた。

「子供の頃からラリーは生活の一部だった。毎年10~12回はイゼール地方でラリーが行われていたんだ」と彼は言う。「モンテカルロは大きなお祭りのようなものだった。幾晩もラリーを追いかけ、翌日は学校を休んでも良かった。それは地元の習わしなんだ」

「当時プロフェッショナル・ドライバーは多くはなかったが、それは非常識な夢だった。両親は資金を出せるほど裕福ではなかったから、すぐに私はその世界に入りたいならメカニックになるしかないと気づき、ガレージで働き始めた」

その後彼はジエレスで自分自身のワークショップを開設する。「それが一番安く自分の車を準備する最も良い方法だった。控えめに始めたが、必ず成功するという気持ちは堅かった」

彼の旅は1967年、ファミリーカーのシトロエン・アミ6で始まった。エントリー100台のラリーに頼み込んで出場し(101番目のシード)、最初のステージでいきなりセカンド・ファステストタイムを記録してみせたという。1969年にはナショナル・シムカ・チャレンジの南西地方部門のタイトルを獲得、そして1971年にはフォード・カプリ2300GTで憧れのモンテカルロに出場した。元ワークスカーのA110(リアエンジンの軽量ロケットでラリーに革命をもたらした)を手に入れた頃にはラリーとヒルクライムでその名を知られるようになっていた。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA Words: Paul Fearnley Photography: Peter Singh of Artcurial

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