一世を風靡した流線形ボディのスーパーカー「スーパーソニック」の数奇な物語

商用車エンジンのポテンシャルを見せつけるべく誕生した、ファジェオルのワンオフ・スポーツカー(Ed Justice Jr/Justice Archive)

「ファジェオル・モータース」は1916年、アメリカにかつて存在したトラック、バス、トラクターなどを製造していた自動車メーカーである。創業一族の子孫で、巨額の資産を受け継いだルー・ファジョエルは、ハイドロプレーンのボートレーサーであり、インディ500に自前のマシンで参戦するレーサーでもあった。

1938年、ルー・ファジェオルが設計した「ソーン・スパークス・ストリームライナー」(SPARKS FAMILY COLLECTION)

1946年に投入したインディカーは、オッフェンハウザー製のエンジンを2機搭載した4WDだった(FAGEOL FAMILY ARCHIVE)

1946年にはエンジンを2機搭載したレースマシンでインディ500に参戦し、予選2位で通過するもクラッシュしてリタイア。1948年には、ファジェオルが手掛けたバスやトラック用エンジンを改造してインディカーに搭載して挑戦した。このマシンは予選7位通過、本選では400マイル地点で6位を走行していたが、やがてタイロッドの破損でリタイア。この成績には、ファジェオル以外の全員が驚いた。彼のバス用エンジンは、世界最速を競うに足りることが証明されたのだ。

「ツインコーチ」インディカーと映るファジェオル(左端)ならびにクルー

ファジェオルエンジンのポテンシャルを引き出す、3連の2バレル・カーター製キャブレター

やがてファジェオルが思い立ったのは、ファジェオル・エンジンの優秀性をアピールするためのスーパーカー作りだった。ハイドロプレーン・ボートレースで知り合った人物から板金加工の巨匠、エミール・ダイトが手掛けたアルミボディを入手した。元々、ボート用に作られたものだったが、ルー・ファジェオルは自身が当時経営していたトラック会社にて改造を加えた。これが「スーパーソニック」の開発へとつながる。

一人乗りだった流線形ボディは、運転席と助手席の2名乗車ができるように変更された。レーシングキャノピーは、ラップアラウンド型のフロントウィンドウスクリーンと油圧制御の開閉式ルーフに置き換えられた。ファジョオルは空力特性にこだわり、ドアを排除。キャノピーを操作するプッシュボタンシステムと、ボディから飛び出すフットステップで乗り降りするものに仕上がった。

1948年にお目見えしたファジョオルのインディカー同様、スーパーソニックはオールアルミの“ファジョオル6”と呼ばれるエンジンを搭載。圧縮比10:1のガソリンエンジンに専用カムシャフト、3連の2バレル・カーター製キャブレターを組み合わせ最高出力275bhpを発生させた。ボディは鮮やかなオックスブラッドにロイヤルブルーのストライプで仕上げられ、その精密な構造は洗練された先進的なものであった。リンカーンの新型シャシーに専用アクスルを装着し、ファジェオル独自のインディ用サスペンションを装備していた。

1949年、インディ500に展示されることになった、ファジェオル・スーパーソニック(INDIANAPOLIS MOTOR SPEEDWAY HALL OF FAME MUSEUM)

公道走行できるファジェオル・スーパーソニックは最高速度150mphを謳い、そのセンセーショナルな流線形デザインと相まって抜群の注目度だった。1949年、三度のインディ500優勝経験者でインディ500主催企業の代表を務めていたウィルバー・ショーの招きによって、レース会場でのスーパーソニックの展示が実現した。そればかりか、ショーがステアリングを握ってデモンストレーション走行を行い、観客が沸いただけでなく、様々なメディアが取り上げることになった。

三度のインディ500優勝経験者でインディ500主催企業の代表を務めていたウィルバー・ショーがデモ走行(INDIANAPOLIS MOTOR SPEEDWAY HALL OF FAME MUSEUM)

スーパーソニックの雄姿に一目惚れしたのが、幼いマーク・ブリンカー氏だった。走っているところを見たわけではなく、子供の頃に雑誌で見たスーパーソニックを忘れることはなかったという。やがて医師になり、自身のクリニックを開業し、運営が軌道に乗った頃、ふとスーパーソニックを思い出したそうだ。

1996年、「ヘミングス・モーターニュース」という中古クラシックカー情報が豊富に掲載されていた雑誌をめくっていたら、運命的にもスーパーソニックの売却情報が目に飛び込んできた。だがブリンカー氏が電話してみると、販売していたのは49%の所有権で、毎月の維持手数料を売主(51%所有者)に支払う、という不思議なものだったそうで諦めたとか。

翌年、「クラシック&スポーツカー」誌10月号でスーパーソニックが特集されていた。なんでも前述のスーパーソニックのオーナーは、デモンストレーション走行から50周年にあたる1999年にインディアナポリスで走らせようと計画していたそうな。そして、ブリンカー氏が知らなかった事実として、スーパーソニックがハドソンの部品を組み込んだ車に生まれ変わっていたことと、1950年代にルー・ファジェオルの息子、レイ・ファジョエルが“ファジョエル6”エンジンを搭載したロードスターを製作した、と記述されていたのだ。

そこでブリンカー氏、直接、レイ・ファジェオルに連絡を取って、スーパーソニックについて調べてみることに。なんでもインディ500でのデモンストレーション走行を見た、ハドソンがファジェオルにコンタクトし、プロトタイプの製作を依頼してきたのだとか。ハドソンからはシャシーとエンジンが送られてきて、ルー・ファジョエルはスケジュールのタイトさからボディの移植で対応することにしたのだ。コクピットを広げ、ボンネットやドアも従来のものを取り付けた。その結果、外観は多少変わったが、紛れもなくスーパーソニックのボディを身にまとった新車、ハドソンプロトタイプが誕生したのである。

ハドソンからの依頼を受けて製作したプロトタイプには、スーパーソニックのボディが奢られた

そして、“ドナーカー”となったオリジナルのスーパーソニックは、ファジェオル6エンジンを積んだシャシーが残され数年、放置されていた。レイ・ファジェオルは1952年、二十歳のときにこのエンジンとシャシーを使って、ロードスターを作ることを思い立った。1946年、インディでクラッシュしたファジェオルマシンのテール部分を用いて、新たなボディパネルを製作し、妻の名前(パット)と自分の名前(レイ)を組み合わせた「パタレイ」と名付けられた。

“ドナーカー”となったオリジナルのスーパーソニックは1946年、インディでクラッシュしたファジェオルマシンのテール部分を用いて、新たなボディパネルを製作し、妻の名前(パット)と自分の名前(レイ)を組み合わせた「パタレイ」と名付けられた(FAGEOL FAMILY ARCHIVE)

レイとパットは1951年、パトレイに乗ってハネムーンに出かけた(FAGEOL FAMILY ARCHIVE)

つまり、スーパーソニックのボディはハドソンのコンセプトカーに流用され、スーパーソニックのエンジンとシャシーは、パトレイになった、ということ。

そんな2台の行方をブリンカー氏は執念で探し出した。最初にスーパーソニックを購入しようと思い立ってから、実に25年の歳月が経過した。

ファジェオル・スーパーソニックはこの2台に“派生”してから70年以上が経過し、ブリンカー氏は25年かけて2台の居場所を突き止め入手(RICARDO CARDENAS)

車両を探すために元米軍諜報部出身の探偵を雇ってまで探し出した話は、また別な機会に取り上げてみたい。なお、ブリンカー氏、これからレイ・ファジェオルと一緒に入手した2台を用いて、スーパーソニックを本来の姿に復元する、という。



続報が待ち遠しい。


編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation: Takashi KOGA (carkingdom)
Words: Mark R Brinker Images: Ed Justice Jr/Justice Archive

古賀貴司(自動車王国)

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