女性オーナーが鮮やかに駆る!ヴィンテージ・アルファロメオの物語

Tim Scott


アメリカ時代


1938年4月、シャシーナンバー50007は、内戦のただ中にあるスペインを離れ、ブガッティディーラーのジャック・レモン・バートンの手でイギリスへ渡った。次に、625ポンド(現在の約4万5000ポンド)とスペアパーツ代40ポンドで、イギリスのアルファロメオ輸入業者のトムソン&テイラーが入手。1939年初めにアメリカへ売却され、ペンシルベニア州のフランク・T・グリズウォルドに納車された。

グリズウォルドは、オートモビール・レーシングクラブ・オブ・アメリカの熱心なメンバーで、コリアー兄弟を筆頭とする情熱的なジェントルマン・ドライバーのコミュニティーに属し、アルファロメオに深い愛情を傾けていた。P3は、おそらくイギリスを旅行中に購入されたのだろう。ミラノのアルファロメオでリフレッシュを受けると、自宅のワークショップで自ら手を加えた。同年、赤に塗り直したP3で、インディアナポリス500マイルにエントリーしたが、必要なライセンスがないことから出走を認められなかった。

グリズウォルドは簡単には引き下がらず、割り当ての場所にP3を駐めると、資格を持つドライバーをピットレーンで探した。そこで見つけたのがルイジ・ギルバート・“ルイス”・トメイだった。トメイは、1943年の『National Auto RacingNews』誌のインタビューで、出走する予定も計画もなかったが、「いい“馬”が手に入ればと願って」インディアナポリスに出掛けたと話している。

グリズウォルドとは知り合いだったが、P3の古さには面食らい、懐疑的だった。しかし1周してみると、そのスピードだけでなく、チューニングの見事さにも感服した。予選は30位で、ドライビングは楽ではなかったと振り返っている。

「オーバルの高速コーナーで能力を発揮するような設計ではなかった。ステアリングで修正し続ける必要があって、肩の筋肉を酷使した」と回想している。

際立つ速さはなかったものの、P3は最後まで完璧に走った。ただし、スパークプラグが代わる代わる問題を起こした。3分の2を終えたところで、疲労困憊したトメイはピットインし、代わりのドライバーを探しにいくと、クラッシュでリタイアしていたメル・ハンセンを見つけた。ハンセンは最後まで走り切り、15位という立派な成績でフィニッシュしている。このあとP3は、デューゼンバーグのコーチビルドで名高いローズモントのダーラム社へ送られた。そこでモディファイを受け、前後サスペンションにカバーが付いた。このときの新しいグリルは、今も現オーナーが所有している。

1939年のインディでの1枚。ルイス・トメイがステアリングを握った。

グリズウォルドは、スペアとして新しいエンジンをイタリアから直接取り寄せ、1940年のインディ500に参戦した。ドライバーはアル・ミラーで、予選は30位で通過したが、完走はならなかった。クラッチが燃え尽きたためで、ボルトが1本緩んでいたことがあとで判明した。2度目のインディ出場後もP3はレースを続け、ニューヨークのフラッシングメドウズの万博会場で開催されたグランプリでは、グリズウォルドのドライブで優勝を飾った。

終戦後、グリズウォルドは北米のアルファロメオ輸入業者となり、ほかにもロッジのスパークプラグ、ボラーニのワイヤーホイール、ウェバーのキャブレター、ナルディのステアリングを取り扱った。1945年に、製造11年となったP3は、アルファ8Cを数台所有するロサンゼルスのトミー・リーに売却された。

トミーの父親のドン・リーは、ラジオ局やテレビ局を起業したほか、46の販売店を抱える西海岸最大のキャデラック・ディーラーだった。ドンは、テレビの電波塔を建てるために山を購入した。それがハリウッドの看板で有名なリー山だ。P3は、トミーの手でロザモンド乾燥湖へ持ち込まれ、アーニー・マカフィーのドライブで、最高速度137mphを記録した。1946年には、戦後最初のインディ500にエントリーしている。P3は、このレース唯一のグランプリカーだった。



より一般的な8C2300のトランスミッションでモディファイされ、“ドン・リー・スペシャル”と名付けられたP3は、ハル・コールがドライブして予選で2列目を確保したが、決勝は燃料漏れのため、わずか16周でリタイアした。1947年は、ケン・ファウラーがドライブし、前年を3mph近く上回る平均速度を記録したものの、121周目にリアアクスルの破損でリタイアを強いられる。1948年は、ルイジ・キネッティがステアリングを握る予定だった。ところが、テールをスライドさせるドライビングスタイルを“能力不足”と見なされて、出走が認められなかったため、ファウラーがドライブしたが、予選で敗退。このレースで、チームはテールにアンテナを取り付けた。ピットとドライバーの無線通信システムを導入したのである。

5度のインディ出走を終えたP3は、1948年にカリフォルニアに売却された。その2年後にトミー・リーは死去する。このとき既にオリジナルのエンジンは失われていた。リーは、所有する8Cにエンジンを移し、ホットロッド造りを望む友人に譲っていたのだ。しかし、幸いにも残りは手つかずの状態で、ウィスコンシン州のデイビッド・ユーラインが購入し、最後のインディアナポリス出走時の状態で維持した。

ユーラインこそ、シャシーナンバー50007のヒストリーにとって欠かせない存在だ。ほぼ手つかずの状態で生き残ったのは、“やりすぎ”のレストアがもてはやされた時代にも、“保存”の意味を理解していた彼のおかげである。ユーラインは1994年にオリジナルのエンジンを入手し、48年ぶりにP3に搭載するため、オリジナリティに配慮した慎重なレストアをイギリスで実施した。





エンジンはジム・ストークスがリビルドした。シリンダーはクラックがあったため新たに鋳造し、クランクケースは新品にした(オリジナルのマグネシウム製ケースは今もオーナーが所有する)。正しいP3のアクスルドライブも製作して取り付けられた。1998年、ほぼインディ出走当時のオリジナルペイント(ところどころヴィリャパディエルナのイエローものぞく)を誇らしげに纏ったP3は、再び走行可能な状態に甦り、いくつものコンクールイベントで成功を収めた。



現オーナーのジェニー・テイラーは、私にこう話してくれた。

「亡くなった夫は、P3を売ってほしいと何年もデイビッドを説得したけれど、成功しなかった。答えはいつも同じ。『彼女を売ると決めたら、真っ先に君に電話する。だが、まだだめだ』って。その電話がようやく来たとき、夫は最初のフライトでアメリカへ飛んだ。彼女を失うどんなリスクも避けたかったのよ」

「P3が走る機会は数え切れないほどあった。グッドウッドが多かったわ。常に、オリジナリティとそれを守る必要性を心に留めていた。実は、私の新聞の足だったのよ。ごくたまにね。以前の敷地では、新聞を取りにメインゲートまで彼女を走らせるのが大好きだったの。大音響だから、いつもヒューに見つかったけれど、彼は本気で腹を立てたりしなかった。遅かれ早かれ、彼女を手放さなければならないことは、よく分かっている。でも、彼女との思い出は本当にたくさんあって…。夜明けにパームビーチをドライブしたこともある。だから、決断を下す前に、もう少し一緒にすごしたいの」




1934年アルファロメオ・モノポスト・ティーポ B “P3”
エンジン:2905cc、直列8気筒、DOHC、ドライサンプ、ウェバー製42BSキャブレター×2基、ルーツ・スーパーチャージャー×2基
最高出力:255bhp/5400rpm 変速機:3段MT、プロペラシャフト2本による後輪駆動
ステアリング:ウォーム&ペグ 
サスペンション(前/後):リジッド式、半楕円リーフスプリング、フリクション・ダンパー(後輪はツイン)
ブレーキ:4輪ドラム 車重:730kg 最高速度:265km/h


編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 
原文翻訳:木下恵 Translation:Megumi KINOSHITA
Words:Massimo Delbo Photography:Tim Scott
取材協力:ポール・ラッセル(paulrussell.com)+リッチモンド公爵(goodwood.com)に感謝する。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.)

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