一目惚れしたアストンマーティン「GO1203」との、運命的な出会い

Hidehiro TANAKA

何事にも始まりがある。それがなかったら何も起こらなかったわけだから、“コトの始まり”への賞賛は最大級であっていい。けれども何かがただ起こっただけでは、調べれば分かる記録にはなれど、思い出すべき記憶にはならない。

人々の心を動かし、そこからまた何か新しいコトが起きることもない。つまり、小さな物語=因縁の連続が振り返ったときにやがて壮大な歴史へとなっていく。

たとえば自動車産業にとっても、モータースポーツにとっても、そしてそれらを愛する人々にとっても。



この物語の起点をどこに置くか。取材を終えた後からずっと悩み続けてきた。資料や文献を漁り、芦屋マリーナでの取材のメモと写メを何度も見直した挙句、〆切を過ぎてなお一語も書き出すことができなかった。ようやくローズゴールドのマックブック・エアーに立ち向かったのは、マラネッロから296GTBをはるばるドライブしル・マンに到着したその夜のことだった。

2023年に記念すべき100周年の記念大会を迎えたル・マン24時間レース。50年ぶりにワークス参戦を果たし、50年前と同じく予選1-2を飾ったマラネッロのレーシングチームにばかり注目が集まっている(ような気がする)。その長い歴史を振り返ってよく思い出されることはというと、たいていは誰がどのようにして勝ったかという華々しいページの数々であり、24時間の、否、準備を含めれば途方もなく長丁場なレースを誰がどのように戦ったかに関わらず、トラック上(あるものはそこにたどり着く前に)散っていった勝者以外の数えきれないエントラントやその関係者たちにスポットライトが当たることなどほとんどないと言っていい。歴史は常に勝者によって紡がれる。例外があるとすればそれは稀に見る悲劇だけであり、いずれにせよ語り継がれる物語というものには常に何かしら目立つ主人公が必要であるということを、ル・マンの地に立って改めて実感した。

前々オーナーの手によって50年代にモディファイされたインターナショナル。当時の雰囲気をよく残している。なかでもオリジナルの重い鉄製サイクルフェンダーを取っ払って、より軽い合金製ウィングを取り付けているのが特徴だ。

ル・マンで認知を高めたアストンマーティン


今回の主人公を車ブランドでいえば“アストンマーティン”である。残念ながら100周年を迎えたル・マンにおいてこの老舗ブランドのワークスチームを見ることは叶わなかったけれども、5台のヴァンテージ AMRがLMGTE Amクラスにエントリーされていた。

アストンマーティンもまたル・マン24時間レースにおいて認知を高めてきたブランドのひとつである。最初のオーバーオールビクトリーは1959年で、かのDBR1によってもたらされた。戦後、実業家デイビット・ブランによって買収されたアストンマーティンは救済者のイニシャルに因んで今に続くDBのモデル名を生み出し、ロードカーとレーシングカーの二本立てでブランドの再興を図ったのだった。実業家の野心はル・マンに勝ってブランド名を世界に売ることであったから、レースに勝ってからというものはロードカービジネスに専念することになり、数々のDBシリーズにとって現代へと続く高級GTブランドとしての基礎を築くことになる。

ル・マンにアストンマーティンのレーシングカーが帰ってきたのは21世紀に入ってからのこと。フェラーリ550マラネッロベースのレーシングカーで戦ってきたプロドライブがマシンをアストンマーティンDB9Rへとスイッチした。その後、三度、アストンマーティンはル・マン24時間レースにおける常連となり、クラス優勝を始め数々の好成績を収めてきた。

そう、今は三度。二度目はデイビット・ブラウン時代。では、一度目は?それを語るには時計の針をもう少し昔、1913年にまで巻き戻さなければならない。そしてこの年を起点に数々のドラマを経て、今回の主役である1930年製の「GO1203」がいよいよ登場することになる。その後、物語は今回の核心となる現代、しかもブランド物語よりはもっと身近で素敵なストーリーへと連なっていくわけなのだが、それは後ほどのお楽しみにとっておこうじゃないか。まずはこの歴史的なブランドの成り立ちを手短に語っておく。

ひとつめの大きな戦争が起きる直前。公道を使った一周およそ54kmのサルト・サーキット最後の年、すなわち1913年にライオネル・マーティンとロバート・バムフォードによる最初の“アストン・マーティン”が誕生した。

バムフォード&マーティン社としてシンガーのディーラーとなり、その改造マシンで競技活動を続けていた彼らだったが、アストン・ヒルでの成功を機にブランド(車)名をアストン・マーティンへ変更することを決意する。この成功を機に、彼らの元にはシンガーを同様の手法でチューニングしてほしいという注文が舞い込んでいた。

とはいえ二輪時代からの同志である二人にとっての夢はあくまでも自分達自身で車を作ることだった。20世紀前半に自動車という新たな乗り物を好んだ才能ある先駆者たちに共通する、それは現代に考えるよりも遥かに現実的な夢であったに違いない。

彼らはコベントリー製エンジンを買ってきてそのチューニングに取り組んでいた。シャシーはもちろん自分達で設計した。けれども世の中にはすでに戦乱の雲が垂れ込めている。シャシーは待てど暮らせど仕上がってこない。完成を待ちきれなくなった彼らは08年製イソッタ・フラスキーニのシャシーに自社チューニングのコベントリー製エンジンを積んだスペシャルマシンを製作。“石炭容器”とあだ名されるほど不恰好だったが、これがアストン・マーティンを名乗った最初のマシンでもあった。

“石炭容器”のパフォーマンスの高さに自信を深めた彼らは新たな工場に移って、いよいよ自分達のオリジナルカーを作り始める。ところが相前後して大戦がいよいよ勃発。彼らは工場の閉鎖を余儀なくされ、戦時輸送に携わることになった。自分達の夢の実現をしばし延期せざるを得なくなったのだった。 終戦後、あいにくとロバートは自動車ビジネスへの興味を無くしており、ライオネルは妻キャサリンと石炭容器と共に、夢の実現へとひたすら突き進む。20年代に入ると少量ではあったもののシンプルで独創的なマシンを生産し始め、錚々たるジェントルマンレーサーの面々に愛された。

しかしながら24年、ライオネルは一度目の破産を経験した。苦境を救ったのはレディ・チャーンウッドで、彼女の息子が新たにボードメンバーとなっている。懸命に会社の立て直しを図ったライオネルだったが翌年、再び資金難に陥り、夢の容器であったバムフォード&マーティン社はチャーンウッド卿やその息子、さらにはカーデザイナーでありレーサーでありビジネスマンでもあったアウグスト・チェーザレ・ベルテリたちによって買収され、ライオネルはあえなく同社を追われることとなってしまった。

ベルテリ・カーズ時代の始まり


1926年。新経営陣のもとアストンマーティン社として再出発。誤解を恐れずに言ってここからが現代へと至るブランド史の真の起点というべきであろう。

なかでもA.C.ベルテリこそはその中心人物だ。アストンマーティンを手に入れる二年前、資産家エンジニアのウィリアム・レンウイックと組んだ彼は“BUZZVOX”の異名で知られるR&B1を作り上げていた。このマシンこそがチャーンウッド卿の買った新しい会社へと彼らが移ったのちに開発された名車“インターナショナル”や“LM”を産む偉大な母となる。ベルテリもまた自分達のマシンの名を世界に売るためにはル・マンでの成功が欠かせないと知っていたし、新生アストンマーティンもまた新時代を駆け抜けるための全く新しいマシンを必要としていた。いわゆるベルテリ・カーズ時代の始まりである。

1928年にプロトタイプマシン、その名もLM1とLM2の二台でアストンマーティンは記念すべきル・マン24時間レースへの初参戦を果たした。そして翌年、プロトタイプマシンをベースに改良を加えた市販車、“インターナショナル”が登場したのだ。

アストンマーティン11/2リットル・インターナショナルのデビューは華々しかった。美しいポイントテールボディに「MT3006」のナンバープレートをつけたシャシー#S016のインターナショナルにはロングストロークの1.5リットル直4SOHCエンジンが搭載され、オイル潤滑方式はドライサンプ式であった。スタイリング上の特徴は大型ドラムブレーキのバックプレートを介し非常に頑丈なアームで取り付けられたフルカバーウィング(いわゆるサイクルフェンダー)である。

西川 淳

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