生産台数わずか19台のサラブレッド|2台のアストンマーティン DB4GTザガートを同時比較【前編】

David Roscoe-Rutter

アストンマーティンDB4GTザガートのオーナーであることはそれだけで特別な名誉である。それを2台所有するとなると、いったい何と言えばいいのか。我々オクタンはこの高貴なサラブレッドの、それぞれに特徴的な2台を比較するチャンスを得た。



はじめに奇妙な数字の謎を片付けておこう。シャシーナンバー0176/Rは数字を見る限りDB4GTザガートの1号車のはずだが、実際には最初に作られたものではない。最初に作られた車はDB4GT/0200/Rだが、これは最後のナンバーである(理由はホモロゲーション取得のため)。実際には0176/Rは6番目に作られた車で、最後に販売されたものの 1台だ。そもそもザガートによって25台が製作されたと記録簿には載っているが、実際に製造されたのは19台に留まるのだ(そのうち1台は二度、作られた)。

わずか19台のうちの2台


ここに紹介するのはダークレッドまたはピオニー(牡丹 /この色のザガートは1台のみ)の 0176/Rと、カリビアンパールという塗色の 0189/Rである。どちらにも興味深いヒストリーがあることは言うまでもないが、何よりもまず驚くのは 2台ともひとりの男の所有であるということだろう。さらに言えば、これら19台のサラブレッドが作られてから60年の間に、彼は何と7台ものザガートを自分のものにしたのである。



だがそれは、ウィリアム・ラフランにとって特に自慢することでもないようだ。長いキャリアを持つディーラーであり、熱心なコレクターそしてエンスージアストでもある彼の人生の中のいくつかの事実にすぎない。これらの車は様々な運命をくぐり抜けて来た歴史を持ち、それが運不運になる。

アストンマーティンはDB4GTザガートのすべてを簡単に売りさばいたわけではなかった。それゆえ1991年、当時のボスであるヴィクター・ゴーントレットの指示で「サンクションⅡシリーズ」を製作することになる。彼らは1963年にDB4が生産終了した時点で組み立てられないままだったシャシーナンバー0192、0196、0197、0198を使って、残りのザガートを製作したのである。

「なぜ2台なのかって?私には二人の子供がいるんだ」と彼は無邪気に語る。だがいったんウィリアムの話は置いて、まずは車のことを説明しよう。

アストンマーティンとザガートとの長い協力関係は、1960年 10月のロンドン・モーターショーでお披露目された、まさにこの車から始まった。ショートホイールベースの DB4GTをさらに軽くスリム化したレース仕様を作るという、社長のデイヴィッド・ブラウンの発表を受けたものである。アストンマーティン自慢のツインカム直列 6気筒をさらにパワーアップしたエンジンを積んだこの車は、フェラーリ250GTSWBなどの強力なライバルに立ち向かう役目を負っていた。

それはザガートに雇われたばかりだったエルコーレ・スパーダにとって簡単な仕事ではなかった。彼はDB4より曲線的なボディに描き直し(ザガートの特徴であるダブルバブルルーフではないことに注意)、さらにたとえばバンパーなど重要ではない部品を取り去ったうえに、多くのスチール製部品をアルミ合金に置き換えた。これは弱冠 23歳のスパーダにとって最初のデザインだった。

薄いアルミニウムパネルからザガートの熟練職人が叩き出したボディを載せ、可能な限りガラスをパースペックスに置き換えた結果、DB4サルーンよりすでに 75kg軽かった1959年型 DB4GT(これも生産台数 75台)に対してさらに100kg以上の軽量化に成功、カロッツェリア・トゥーリングによるボディスタイルはフェアリング付きヘッドランプのおかげで一段とスリークになった。

そもそも1958年に発表されたDB4はスタンダードモデルでも革新的なクーペだった。エンジンはタデック・マレックが新設計したもので、トゥーリングによるスーパーレッジェーラ(スーパーライトウェイト)構造を特徴としていた。これは細い鋼管製の骨格の上にアルミのボディパネルを貼るという手法である。

DB4はアールズコートで発表されるやいなやセンセーションを巻き起こしたが、その翌年にはGTが加わり、そしてさらに翌年の1960年にはGTザガートが発表されたのだから、デイヴィッド・ブラウンはまさしく野心的だった。歴史に残るこの 3台のうちの最後のザガートはたちまち伝説的な車となった。その希少性と高度なメカニズムをぎゅっと凝縮して包み込んだきわめて魅力的な、フランス語では「jolie-laide」(典型的な美しさではないが魅力的)と言われるデザインを考えればそれも当然である。DB4GTザガートを所有することは芸術作品を保護するのに近いと言えるだろう。

実は思ったほど売れなかったザガート


アストンマーティンが1959年のル・マンを制したことはご存知のことだろう。デイヴィッド・ブラウンはさらにジェントルマン・レーサーのための優れたカスタマーレーシングモデルを生産するという計画を立てていた。その車はサーキットで勝利を収めた後に自走で戻って来られるものでなければならなかった。実際にアールズコートでお披露目された車はロブ・ウォーカー・レーシングチームに引き渡された後にそのままグッドウッドに向かい、1961年のイースター・レースミーティングに出場。初出場のザガートのステアリングを握ったスターリング・モスは、250SWBとDB4GTに続く3位に入賞した。

アストンマーティン・ザガートは、ジョン・オジェのエセックス・レーシングの一員としてさらに華々しい活躍を見せた。ワークスのサポートを受けたあの有名な「1VEV」と「2VEV」のプレートを付けた2台である。この 2台は1961年のル・マンにも参戦したが、ともにリタイアに終わった。初勝利はエイントリーで開催された英国 GPのサポートレース。2VEVに乗ったレックス・デイヴィソンが最終ラップでジャック・シアーズのジャガーEタイプを抜き去り、記念すべき勝利を挙げた。

だが今も語り継がれるのは、あのジム・クラークが2VEV(同じナンバーだが、スパでのルシアン・ビアンキの事故の後、3台が製作されたスーパーライト仕様のうちの1台として作り直された)を信じられないような角度でドリフトさせて暴れまわった、1962年グッドウッドのツーリストトロフィー(TT)である。最後にはマジウィック・コーナーでジョン・サーティーズの250GTOと接触してしまい、そこに前年の優勝車である250SWBに乗ったロビン・ベンソンも突っ込んでしまうのだが、それまでのクラークのレースは英雄的と言えるものだった。

アストンマーティン・ザガートは結果としてサーキットでは望んだほどの成功を収めたとは言えなかった。逞しい3.7リッター直列6気筒は250SWBの3リッターV12にほとんど引けを取らず、ライバルと熾烈な戦いを繰り広げたものの、コンペティションの進歩は速く、そのうちにアストンマーティンはザガートの生産を予定より早く終了させてしまった。というのも、期待したほどすべての車が簡単には売れなかったからで、それゆえDB4GTザガートはさらに希少な車になったのである。

0176/Rと0189/Rは他の車とともに、何と“ひと山いくらの割引品”としてロンドンの老舗アストンマーティン・ディーラーであるHWMに売却されたという(編集部註 :HWMはGPカーコンストラクターでもあった)。

シャシーナンバー 0189/Rは1998年のペブルビーチ出品を前にアストンマーティン・ワークスでフルレストアされ、今も最高のコンディションを保っている。

軽量のザガート・バケットシートはイタリア流の特徴だ。

仮にあなたが 1960年のアールズコートでの発表直後に注文したならば、5470ポンドを支払う必要があったが(訳註 :ちなみに当時は1英ポンド=1008円の固定相場制)、オジェは20%のディスカウントを受けて、2台のレーシングカーに8672ポンドを支払ったという。そもそもDB4GTでさえ4534ポンドだったことを忘れてはならない。その半額でジャガーEタイプ( 1961年発売)が買えたのである。

とはいえ、DB4GTザガートは常に特別な存在だった。1960年代から70年代を通じてアストンのエンスージアストやクラブレーサーたちは大いに楽しみ、80年代になるとコレクターズモデルとしてより有名になった。

0176/RはHWMが1962年にエドワード・ベックに売却、彼はACアスィーカ(訳注 :ACエースのクーペ仕様)と半ば交換で購入し、自宅のあるマン島に持ち帰った。その後の17年間をマン島で暮らしたが、その間ベックは大切にメインテナンスを行ったという。たとえばボディを保護するためにDB4用のバンパーを改造して取り付け、同様にザガートの簡素なセミバケットシートよりずっと快適なDB4GTのシートを装着した。この車の後のオーナーにはアストンマーティンの会長を務めたヴィクター・ゴーントレットも含まれるが(1980~82年)、その後、有名コレクターのポール・ヴェステイに譲渡され、その際にバンパーが取り外されたという。

0176/Rのきわめてオリジナル性が高いインテリア。

ディーラーのダンカン・ハミルトンの仲介でコレクターのユベール・ファブリの手に渡ったのは1984年、彼は2022年にウィリアム・ラフランに譲り渡すまでDB4GTザガートを所有した最も長いオーナーとなった。ここで重要なことは、0176/Rはサーキットで一度もダメージを受けたことはなく、フルレストアも行われていないという事実である。


・・・【後編】に続く


編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA
Words:Glen Waddington Photography:David Roscoe-Rutter

高平高輝

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