プリンス自動車のインサイドストーリー 第1回│プリンスとレース 第二回日本GPまで

資料提供:板谷熊太郎 (Kumataro ITAYA)



それは1955年に防衛庁(当時)の嘱託として中川氏がスイスに出張した時のこと、現在も存在する軍需産業のエリコン社に重役のガーバー博士を訪ね技術懇談を行なうのだが、会議の途中からガーバー博士の様子が急変する。立派な大人がそわそわし始めて全く懇談が進まない。その原因は懇談中に秘書から渡された一枚のメモだった。そのメモには、博士のオーダーしていたクルマがたった今、玄関前に届けられた、とあった。好奇心も手伝って、博士とともにエリコン社の玄関まで赴くと、そこにはアイボリーに塗られたメルセデスベンツ300SLガルウィングがたたずんでいた。

中川氏が本業の傍ら防衛庁の嘱託を務めていたのは、飛行機に対する未練からに他ならない。エリコン社も主にロケット技術の懇談のために往訪している。そこで中川氏を待っていたのは、大人のなかの大人であるガーバー博士をも虜にしてしまうクルマの存在だった。クルマも悪くないな、と開眼。後々中川氏はことあるごとに話している、この時から、スポーツカーをつくることがわたしの 1955 年に天才技術者が抱いた夢がカタチとなって現れるのは、1960 年11月のトリノショー。ミケロッティによるイタリアンデザインを纏ったスカイラインスポーツである。このスカイラインスポーツこそが、イタリアでデザインされた最初の日本車、ここでもプリンスは先鞭をつけている。



スカイラインスポーツを生産するためにプリンス社内に
ひとつの部署が誕生する。それがプリンスの三鷹分工場内に設けられたスポーツ車課で、車体製作技術を学ぶためイタリアのカロッツェリアから職人を招聘した際の受け皿となったのも、このスポーツ車課である。

半年もの間、4名のイタリア人職人からイタリアならではの手工業的ボディ製作技術を学び、後にその技術はゼロからつくりあげた日本初の御料車プリンスロイヤルや、これも日本初となるプロトタイプレーサー、プリンスR380シリーズなどの製作に活きている。

スポーツ車課とは、その名の示す通り、スカイラインスポーツを製造するために新設された部署だが、プリンスのモータースポーツ活動も初期はこのスポーツ車課が統括していた。

スポーツ車課が主体となり、車体が重くエンジンも非力なスカイラインスポーツを用いて内外のレースに参戦する。そのなかのひとつが、第一回日本グランプリだった。



ルールを尊び、崇高なるアマチュアリズムの許に参戦した第一回日本グランプリは、プリンスの惨敗に終わった。この様子は、戦前、多摩川の河川敷で行なわれたレースを彷彿とさせる。日産の有志が週末の草レースを愉しむ風情で参加した多摩川のレース。結果は町工場に等しいオオタの前に惨敗。日産のオーナーである鮎川義介氏は激怒し、日産の誇る設計本隊が投入され次回のレースに備えた。日産は必勝を期してアメリカから強力なエンジンを購入したらしい、との根も葉もない噂のためオオタは次のレースを棄権。日産が雪辱を果たすことは叶わなかった。

プリンスでも、第一回日本グランプリの結果にオーナーの石橋正二郎氏は怒髪、天を衝く勢い。早速プリンスの設計陣から一線級が投入されて第二回日本グランプリに備える。余談ながら、第一回日本グランプリの結果は、石橋正二郎氏からビジネスとしてのクルマに対する関心を失わせる要因になったとも言われている。

実のところ、スポーツ車課は第一回日本グランプリに無策で臨んでいたわけではなかった。戦闘力に乏しいスカイラインスポーツを何とか戦えるようにするにはエンジンを強化するしかない。そのための常套手段は大きな心臓、すなわちスカイラインスポーツに6気筒エンジンの搭載を計画していた。

スカイラインスポーツに6気筒エンジンを搭載するにあたり、レイアウトに関するさまざまな机上検討がなされている。そのなかにはエンジンコンパートメント部を伸ばす案も含まれていた。後にスカイラインGTで実現するフロント部分の延長は、既にスカイラインスポーツで学習済みの案件だった。ただし、スカイラインスポーツではフロント部分を改造することなく6気筒エンジンが搭載できることが判明、実際、スカイラインスポーツに6気筒エンジンを搭載したモデルも製造されている。スカイラインスポーツの場合は、そもそもエンジンルームに余裕があったのに加え、イタリアに発注して実現したデザインを大切にしたい、と判断した結果であろう。

勝つことが至上命題である第二回日本グランプリでは、そのように悠長に構えるわけにはいかない。早速、スカイライン1500に6気筒を搭載する計画が推し進められる。具体的にはスカイラインスポーツで検討したエンジンコンパートメント部分の延長。エンジンルームに余裕のあったスカイラインスポーツの場合と異なり、スカイライン1500では、最低でも170 ㎜の延長が必要だった。限られた時間で作業を進める必要性から、20 ㎜の余裕をみて190 ㎜の拡大と決まりかけた時、いや、作業に混乱やミスが生じないようにキリの良いところで200 ㎜としよう、と鶴の一声。このあたりにも、戦時中の修羅場をくぐりぬけてきたプリンス首脳陣の慧眼が光っている。

急仕立てでフロント部分を200 ㎜延長して6気筒を搭載したスカイラインGTのグランプリにおける活躍について、あらためてこの場で確認することはしないが、スカイラインGTにもいくつか欠点があった。そのひとつが操縦性。

クルマのフロント部分を拡大した、ということは、元のクルマに対してホイルベースも伸びている。これがクルマの操縦性に変化をもたらす。いわゆるアッカーマン比。フロントタイヤはステアリングを切った際、内輪と外輪では切れ角が異なる。内側のタイヤの方が軌跡の半径も小さいのでより強くステアしていなければならない。この左右のタイヤのステア比が俗にアッカーマン比と呼ばれるもので、トレッドやホイルベースが変化すれば、それに応じてアッカーマン比も異なる設定を行なわなくてはならない。

スカイラインGTではここまで手が回らなかった。二輪でレース経験を積んだプリンスのレーサーたちは異口同音に、いやこのクルマ曲がらないんだ、つい癖でバイクのように自分の体をインに向けて傾けるんだが、それで曲がるわけはないよね、とぼやくことしきりだったらしい。

次回は、レースを左右するのはタイヤだと気付いたプリンスがルマンに出かける話から。

Words & 資料提供:板谷熊太郎 (Kumataro ITAYA)

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