これがアストンマーティン?まるで知らない星から来た生き物「アトム」

Photography:Simon Clay



アトムのバケットシートで長距離ドライブをすれば腰痛が奇跡的に治るという言い伝えまである。腰痛持ちである私は、好奇心半分、疑念半分で運転席に乗り込んだ。シートは硬すぎず、サポートもなかなかのものだ。飛行機からヒントを得たことに感謝すべきかもしれない。

エンジンは、見た目に似合わぬ力強い唸りを上げた。これは期待できそうだ。フロアから突き出た大きなレバーで前進・後退を選ぶ。ギアの切り替えは、調整可能なステアリングコラムから出ている小さな棒状のスイッチで行う。右端が1速で、左端が4速だ。コタル製のセミオートマティックトランスミッションに慣れるのは難しくはないし、ダブルクラッチが必要ないのもありがたい。ただ、このギアボックスは4気筒エンジンに対して重すぎるのが難点だった。あくまで実験的な車なのだから仕方がない。

オリジナルのエンジンは1944年に換装され、1970ccの4気筒ユニットにSU製キャブレター2基の組み合わせになった。クロード・ヒルの開発でわずかだがパワーアップしており、現在も同じ仕様である。サザーランドが残した記録によると、2分割のリアウィンドウを変更し、ホイールベースを延長するほか、オーバードライブユニットの装着も計画していたようだ。アトムのパワーがもうひとつ足りないことを承知していたのだろう。

計画が実現することはなく、今も出力は82bhpのままである。アルミニウム製ボディとはいえ、車重は1200kgあるので、かなりのパワー不足だ。従って、スピードは当時の一般的なサルーンと同程度で、0-60mph加速は19秒もかかる。これではスポーティーとはいえないし、ル・マン出場など問題外だ。

だが、田舎道を走ってみるとキビキビとして反応が鋭く、ストレートにも果敢に挑んでいた。実用的な面でアトムをGTと呼ぶことはできないが、コンセプトはまさしくグランドツアラーだ。少なくとも、1946年にサザーランドの後を引き継いでアストンマーティンのオーナーとなるデイヴィッド・ブラウンにとっては、そのポテンシャルを確信するに足る存在だった。何しろ、アトムのテストドライブを行ったあとで歴史的な決断を下したのである。戦後、経営難に陥ったアストンマーティンは、タイムズ紙の告知欄に「買い手求む――スポーツカー会社」という小さな広告を出した。ブラウンはその会社がアストンマーティンであることを知って驚いたが、喜び勇んでファクトリーを訪問し、ゴードン・サザーランドと会談した。その際に試乗したのがアトムだった。

のちにブラウンはこう振り返っている。「試乗したところ、ロードホールディング能力は抜群だが、パワーが大きく不足していた。それでも、所有していろいろ試したらおもしろいだろうと思い、アストンマーティンを2 万ポンドで購入した。当時にしてみれば大金だったが、それで私が手に入れたのは、件のプロトタイプと、錆びた古い工作機械、そしてアトムのデザイナーのクロード・ヒルだった。彼は非常に優秀だった」アトムに乗ったことで、車だけでなく、会社自体を買い取る決断を下したことに驚く。テストドライブの最中にガス欠を起こしたというのだから、なおさらだ。



アトムのシャシーとエンジンの基本構成は、ブラウンがオーナーになって最初に誕生したモデルにも引き継がれた。このレーシングカーは、1948年のスパ24 時間レースで勝利を飾り、DB1のベースとなる。その頃にはアトムは時代後れになっており、1949年に売却された。その後は何度もオーナーを変え、一時はW.O.ベントレーが名付け親になった人物が所有していた。この人物は軍にいた際に、バックで4速ギアに入れて閲兵場内を走ってみせたと言われている。コタル製ギアボックスならやってできないことはない。

1980年代になると、アトムはル・マンの自動車博物館に収蔵され、そこからシャテルローの自動車博物館に移った。その2年後の1985年7月に、アストンマーティンのエンスージアストで現オーナーのDr.トム・ローラソンが入手して、再び英国に持ち帰った。なんとローラソンは、アトムを一度も目にすることなく購入した。売りに出された際に入院していたためだ。自分の目で見たのは、購入してから2カ月後のことだった。

ローラソンは、ゴードン・サザーランド(2004年に96歳で亡くなった)の協力を得て調査とレストアに取りかかり、完成までに10年を費やした。フランスから届いた車はブルーだったが、赤やグレー、シルバー、ブラックの時期があったことも判明した。ローラソンは考え抜いた末に、1946年と同じシルバーに戻すことにした。 

ローラソンには、細かい点も見逃さない鋭い眼
力があった。イギリスに到着した車を見た途端、ヘッドライトがオリジナルのものか疑問を抱いたのである。案の定、シャシーにボルト穴が見つかり、すぐに正しいライトに付け直した。ヘッドライトのマウントは、一体式のノーズ内部に付いていたが、ノーズの裏側に取り付けるのが正しかったのだ。

また、アトムはアストンの中でも初めてドリルねじ
を採用した車なので、ローラソンは2年かけて当時のねじを探し出した。ところが、そのためにコンクールで減点されてしまった。審査員が現代のねじと勘違いしたのである。

アトムの外観に魅力を感じるかどうかは意見の分かれるところだろう。しかし、たった1台しか存在しない正真正銘のワンオフであり、アストンマーティンの歴史上、とりわけ重要な存在であることは間違いない。2013年にアストンマーティンが4ドアのラピードSを発表した際には、アトムが登場して華を添えたが、時代の先を行っていた車だけあって場違いには見えなかった。近年のアストンが採用している平たい三角形のグリルはアトムが元祖だと言う者までいる。

1995年にレストアが完成して以来、アトムは数々の賞を獲得してきた。2012年には、バーミンガムで行われたクラシック・モーターショーで、並みいるライバルを尻目にベスト・イン・ショーに輝いている。だが、何年も公の場に姿を見せないこともある。ローラソンは人当たりのよい人物で、アトムのオーナーというより管理人にすぎないと自認している。ただアトムについては、限られた機会にしか現れない特別な存在にしておきたい、だからどんなイベントでも見られるわけではないのだと話している。

実に的を射た方針だ。何といっても、アトムは特別待遇にふさわしい唯一無二の存在なのだから。

翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words:Martin Van Der Zeeuw 

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