日本におけるフォルクスワーゲンのはじまり│1952年製ビートル

Photography:Gensho HAGA、YANASE & CO.LTD.、 Volkswagen Archives 


 
ノルトホフ社長が来日した1952年当時、日本が将来、自動車大国になると彼が考えていたのかどうかは知る由もない。だが、ドイツと同じく戦後復興のために動き出していた、日本という国を自分の目で見ておきたいと考えたことは想像できる。ノルトホフ社長が携えてきた4台(スタンダード、デラックス、マイクロバス、コンビ)は各輸入車販売店を回ってプロモーションを行ったが、その中にGMの代理店であった梁瀬自動車(当時)もあり、同社の芝浦工場(現在の株式会社ヤナセ本社)で詳細に検討が行われた。ノルトホフ社長のプロモーション活動には10数社が輸入販売権の取得を申し出、その中からヤナセが選ばれた。
 
サンプルカーの4 台はそのまま日本に留まり、1953年1月16と17日に、代理店に決まったヤナセが東京・日本橋で開催した展示会には、約6000名の来場者があり、380件もの注文があったという。1953年にはタイプ1が105台、タイプ2(マイクロバス/コンビ)が3台の合計108台が輸入されている。
 
1953(昭和28)年ごろの日本では、自家用車を持つことは庶民にとって遙か遠くの夢であり、乗用車との接点はタクシー程度であった。この時期、日本では自動車の輸入は厳しく制限されていたが、フォルクスワーゲンは正式輸入以前にも大使館や駐留軍人よって少数が上陸していた。

それらに路上で遭遇する機会は希だったが、自動車に関心がある人のなかでは優れた性能や品質が話題になっており、53年1月の来場者には、ひと目でも本物を見たいという、自動車技術者の姿もあったことだろう。余談ながら、1949年ごろにはタイプ1が個人によって日本に持ち込まれており、これをヤナセが調査していたとの証言もある。


 
1953(昭和28)年5月には上野公園で「自動車産業展示会」が開かれ、翌54年には日本で初めての本格的自動車ショーである「第1回全日本自動車ショウ」が開催され、10日間の会期中に54万7000人が入場、自動車への期待の高さを示した。また、1952〜53年には、日本の自動車会社が車不足解消と新技術を吸収するため海外のメーカーと技術提携し、ノックダウン生産に乗り出した。日野ヂーゼル工業(現:日野自動車工業)、日産自動車、いすゞ自動車の3社から、それぞれ日野ルノー、日産オースチン、いすゞ・ヒルマンが誕生した。この3台の中で最も安価だったのは、日野ルノー・スタンダードの73万円で、日産オースチン(A40サマーセットは111万4000円、いすゞ・ヒルマンは70〜92万円であった。トヨタは独自開発の道を選び、1955(昭和30)年にトヨペット・クラウン(RS型)を完成させ、99万5000円で発売した。
 
これら日本車に対して、フォルクスワーゲン・ビートルはスタンダードが74 万円、デラックスが80万円で、同年に105台が販売されている。だが、1953年当時の大卒初任給が9200円ほど、煙草が30円、新聞月額購読料が280円という時代であった。庶民にとって、自家用車は非現実的な遙か遠い存在であり、車好きにとっては、これらのタクシーに乗ることが車と触れる唯一の機会だった。
 
ノルトホフ社長が携えてきた4台のサンプルカーの中で、現存しているのは濃紺に塗られたタイプ1(ビートル)のスタンダード・モデルのみである。サンプルカーとしての役目を終えてから、ナンバーを取得して販売されたが、その後ヤナセに戻り、大切に保管されていた。
 
ヤナセ創立100周年を迎えるにあたって、このタイプ1を輸入第一号車と位置付け、レストアを実施してショールームなどで公開している。
 
ボディのペイントはやり直し、タイヤを交換してしるものの、車内やエンジンルームはクリーニングのみを施したくらいだというから、よほど手厚い保護を受けてきたのだろう。1952年から続くフォルクスワーゲンと日本との強い結び付きを示す貴重な存在である。

文:伊東和彦/Mobi-curators Labo.  Words:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 写真:芳賀元昌、株式会社ヤナセ、フォルクスワーゲンアーカイブス 

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