ドライバー、脚本家、ビジネスマンとしても才能を持っていた│ジョン・カウンドリーという人物

レーシングドライバーの故ジョン・カウンドリーは、英国ハンプシャーのブロッケンハーストに生まれた。カウンドリーは、英国商船隊員として1940年に初航海に出航し、戦中を通して兵役を務め続けた。広島への原爆投下の1日前、長崎への原爆投下の2日前にあたる1945年8月7日、日本が降伏する意向を示すメッセージを通信傍受したのは彼であった。
 
戦後は不動産業を営みながらモーターサイクル・レースにも参加していたが、1951年にジャガーSS100 3.5で自動車レースに参戦。AEF500ccフォーミュラを経て、1956年にシルバーストーン・サーキットで初参戦。強豪を相手にしたレースであったものの、自らのジャガーXK120で彼自身も驚いたという勝利を果たした。
 
1959年、カウンドリーはジャガーDタイプに乗って好成績を残した。さらに、彼にとって初のリスター・ジャガーとなったコスティン・ボディを持つ"WTM446" をドライブして、1960年にシルバーストーンで開催されたAMOC主催のマティーニ・トロフィーに勝ったほか、数多くの優勝を果たした。

また、1961年に公開された映画『The Green Helmet(邦題:野郎ぶっ飛ばせ』に所有車を提供し、ミッレミリアなどのレースをストーリーとする脚本も共同執筆している。別のリスター・ジャガー"YOB575"は、1962年マティーニ・トロフィー勝利など、さらに成功をもたらした。1964年グッドウッド・サーキットで開催されたラヴァント・カップ(写真右上)ではロータス19クライマックスに乗り、同じエンジンを搭載したクーパー・モナコT61に乗るジャッキー・スチュアートや、ブラバムBT8(BRMエンジン)に乗るジャック・ブラバムをおさえて勝利を果たした。彼がロータスに乗って樹立したラップ記録は、1966年にグッドウッド・サーキットが閉鎖された際にも、最高記録であった。
 
ディック・プロスローとともにカウンドリーもジャガーEタイプに乗ったが、国際戦の勝利記録は2回にとどまった。1964年にロー・ドラッグ"CUT7" で参戦したモンレリー1000kmレースとランス12時間レースだ。また同年、ブランズ・ハッチではトジェイロ・フォードで優勝し、1963年にはフランク・ガードナーと組んでロータス・エリートに乗り、ル・マンに参戦している。カウンドリーにとって最後のレースとなったのはマクラーレン・エルヴァ共同開発のMk.1A(オールズモビル製エンジン)で、スポーツカーによるレースを支持していた1965年イギリスGPや、グッドウッドで開催されたウィットサン・トロフィーなどで勝利を収めた。
 
1966年にカウンドリーはレースを引退。その後は不動産業務に集中し、65歳のときに第二子が誕生。自家用飛行機を操縦し、85歳にして自身で所有するランドローバーを運転して砂漠を横断している。また、彼はBRDCのメンバーでもあったが、これはジム・クラークからの提案にロイ・サルバドリの賛意を受けたものであった。

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