元F1ドライバーとロータス26Rの思い出|エランのメモリーレーン

Olgun Kordal

元F1ドライバーで、F1チームのアロウズ・オーナーを務めたジャッキー・オリバーが、レーシングドライバーになるきっかけとなったロータス26Rとの思い出を振り返る。



ジャッキー・オリバーと過ごした一日が終わり、バッキンガムシャーにある彼の美しい自宅のガレージに向かうと、胸が締め付けられる瞬間があった。ガレージに置かれていた取材陣の鞄を取りに入ると、そこにはひっそりと佇むロータス・エラン26Rの姿があった。最近、買い手が決まり、間もなく新しいオーナーに引き取られる。オリバーはロータス・エラン26Rと共にレースキャリアをスタートさせた。彼は想い出を刻んだ26Rでのラストランを終え、静かにクールダウンしていた。かつてドライバーとして、チームオーナーとして活躍した歴代のマシンたちとガレージを共有していたが、今ではゴルフクラブや庭の手入れ用具に囲まれているだけだ。オリバーは、エラン26Rとの別れは「悲痛」であると静かに認めている。



Eタイプで頭角を現す


当日、私たちは紅茶を飲みながらオリバーのアルバムを漁り、彼の栄光を形作る上でエランが果たした役割について考察してみた。オリバーの才能はこの車でロータスのコーリン・チャプマンとアンドリュー・ファーガソンの目に留まり、ル・マン、デイトナ、セブリングで耐久クラシックを制し、50ものグランプリに出場。そして1974年にはCan -Amのタイトル獲得。ジョン・ワイア・チームのポルシェ917を駆って、ル・マンのラップレコード151mphという驚異の数字を叩き出すに至る道程を踏み出したのであった。

オリバーが、筆者のジェームス・ペイジと一緒にアルバムを捲る。

オリバーの初期におけるレース活動は、ケン・ベイカーというビジネスパートナーを持つ父親が資金を提供していた。初期のジャガーEタイプを購入したベイカーは、レースでそれなりの成功を収めたが、オリバーはすぐにアマチュアとスーパースターの違いを見せつけることになった。

「父は冷凍車、ケンは車体やトラックの製造に携わっていたので、両者の合併は必然でした。そんなケンは熱心なレーサーで、Eタイプを購入してからレースに参戦するようになったんです。ある日、私にEタイプを運転させてくれたら、彼よりラップタイムが 5秒ほど速かったんです」とオリバーが口を開いた。

アルバムを捲っていくにつれ、オリバーの記憶が蘇ってくる。ふと、彼はパドックに停車しているフェラーリや同車がサーキットを走っている写真を前に動きが止まった。

「この写真はブランズハッチの走行会の時に撮ったもので、車は父のものです。彼が売店に立ち寄っている間“インターバル中、タイムアタックしたいならどうぞ”とサーキット関係者に言われたんです。たしか5ポンドか何かを払って、父の車でコースインしました。帰ってきた父は周囲に“俺の車はどこだ?”って聞いたそうですよ。だれかがジャッキーが乗っていったよ、と答え“どこに?”と尋ねると、コースを周回しているよ、って具合なやりとりがあったそうです」

レーシングエラン 26R


さらにアルバムを捲っていくとオリバーがミニからマーコス、ディーヴァと乗り継ぎ、やがて父親にエランがほしいと言い出すまでの時系列が整理されていた。1962年、ロータス・エランが発売された際、コーリン・チャプマンはこの車を競技車両にするつもりはなかった。公式パンフレットには「市販の高性能高級スポーツカー」と謳われていただけでなく、「レースには適さない」とまで書かれていた。だが、必然的な流れとしてエランでレースをする人が現れ、1963年にはイアン・ウォーカー・レーシングとグラハム・ワーナーのチェッカーフラッグ社が、エランをサーキット・マシンとして開発することになった。特にワーナーはエランのサーキットにおける挙動には不満を露わにしていて、バックボーン・シャシーが極端にたわむこと、ブレーキやサスペンションが十分に“仕事”をしていないことなどを指摘していた。

ワーナーが手を加えた多くは、1964年にロータスが投入した公式競技仕様車、エラン26Rでも同様のチューニングが散見された。シャシーは強化され、車高は下げられ、スプリングとダンパーを改良などだ。サスペンション・ジオメトリーは調整可能式なものになり、厄介なロトフレックス・ドライブカップリングはスライド・スプライン式ハーフシャフトに交換された。ワイドなマグネシウム合金ホイールが装着され、コスワースが開発した1558ccツインカムエンジンは最高出力 140bhpをわずかに上回った。

コスワースチューンが施されたロータス・ツインカムエンジンは当時、最高出力140bhp強だった。

開発はシリーズ1、シリーズ2と続き、BRMがチューニングしたエンジンがそれ以降のマシンに搭載された。1964年から66年にかけて合計 97台の26Rが製造され、ジム・クラーク、ジャッキー・スチュワート、ジョン・マイルズ、ピーター・アランデルらがプロモーションに参画した。

編集翻訳:古賀貴司 (自動車王国)

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