元F1ドライバーとロータス26Rの思い出|エランのメモリーレーン

Olgun Kordal



オリバーの“26-S2-9”


オリバーは、シャーシナンバー26-S2-9に父親が 1800ポンドを支払ったことを覚えている。

「エラン26Rを自宅に持ち帰ると、友人でちょっとした腕利きのエンジニアでもあったバリーが"これを替えなきゃ、あれを替えなきゃ"といいはじめたんです。そして、スプリングやダンパーをいじり回しました。持つべきものは、よき友人です。というのも1960年代、だれもが車を速く走らせようと試行錯誤したものですが、ほとんどはエンジンに集中していました。特にサスペンション・ジオメトリーはオリジナルの設計者以外、だれも目を向けていませんでした。だから、この車は成功できたのです」

パドックで撮影された写真を見るとチーム・オリバーは当時、スタイリッシュに移動していた。「私がバリーに“トレーラーを用意したほうがいいね”というと、彼は“ジャッキー、トランスポーターを造ろう”と返してきたんです。スクラップヤードから何か買ってきてトランスポーターを造ればいいというので…、このフォードを見つけてきました。元はパン屋で使用されていたものを100ポンドで購入しました。ただ、いざガレージに持ち帰ってみるとエラン26Rを載せるには長さが足りませんでした。そこで全長を伸ばすことにしたんですが、今度はエンジンが非力なことに気づきました。たまたまアメリカ軍基地の近所にアメリカ車を多く揃えたスクラップヤードがあって、フォード・サンダーバードを購入しました。シャシーを伸ばして、サンダーバードからエンジン、トランスミッション、リア・アクスルを移植しました。この話を聞きつけたフォードがとても感心したようで、社内報"チャレンジ"で取り上げられることになりました」

シルバーストンで撮影されたトランスポーターは、フォードサンダーバードのエンジンを搭載。

エランを高速トランスポーターに載せ、オリバーはイギリス各地を転々とした。1964年、スネッタートンで開催されたスコット・ブラウン・メモリアル・トロフィーではチェッカーフラッグのエランに乗ったグラハム・ワーナーと激しいバトルを繰り広げ、4位に入賞した。なお、オリバーよりも前を走っていたのはロイ・サルバドーリのフェラーリ250LM、マイク・サーモンのアストンマーチンDB4GTザガート、トミー・ヒッチコックのコブラと錚々たる面々だった。

1964年、スコット・ブラウン・メモリアル・トロフィーで4位に入賞(マイク・サーモンのアストンマーチンDB4 GTザガートの次だった)。

彼の成功は1965年に入っても続いた。7月のクリスタル・パレスでは、デビッド・パイパーの 250LMに次ぐ2位フィニッシュを果たし、オートスポーツ誌は「ジャック・オリバーは小さなエランを駆って総合 2位とクラス優勝を果たし、新しい記録(ラップタイム)も樹立した」と記した。

この頃から、オリバーは活躍するフィールドを広げるために冒険を始めた。9月、オリバーはフランス・モンレリで開催されたクープ・ド・パリに参加し、小排気量スポーツカーとGTのカテゴリーで勝利を収めた。この時、オートスポーツ誌は「ジャック・オリバーはエキスパート・エンジニアリングがチューニングしたエランで、レースのために特別に持ち込まれたオートデルタの GTZアルファを運転していたベルナルド・コンステンを完全に抑え込んだ」と評した。オリバーの活躍は、だれの目にも留まるものだった。

オリバーが運転する26 R、フランス・モンレリでの勝利に向けて疾走した。

チーム・ロータスからBRMへ


「ワークスカーに勝てば勝つほど、コーリンは私との契約に前向きになっていきました。そうこうしているうちに父がブラバムの F3マシンを買ってくれて、グッドウッドとスネッタートンを走った後、コーリンから声がかかりました。『もうやめてくれ。チャールズ・ルーカス・チーム・ロータスでF3マシンに乗ってほしい』といってきたんです」

ピアス・カレッジとロイ・パイクを加えた3台体制が、オリバーにとってのプロ・レーサー人生の始まりだった。すべてはエランのおかげだった。

1967年2月、オリバーはF3からF2へとステップアップ。翌年 4月、ジム・クラークの死去によってロータスとチャプマンが打ちひしがれた。オリバーは最も悲劇的な状況下でF1チームに昇格し、厳しい1年となったものの(シーズン終了後 BRMに移籍)、ロータスで過ごした日々は印象深いものになった。

「人生でやってきたことはすべて、特に自分のチームを立ち上げたときには、“この状況でコーリンならどうしただろう”と考えてきました。それほど私に影響をおよぼした人物でした。彼は万能でした。スポンサー探しもできましたし、レースマシンの運転もできましたし、あの時代、設計部門を率いるのに最適な人物でもありました」

オリバーは続けた。「コーリンは当時、親友と最高のドライバーを亡くした状態で、私にジム・クラークの代わりが務まりませんでした。コーリンが必要としていたのは、マシンをどうしてほしいのか、どんな状況下でも適格かつストレートに伝えられるドライバーでした。それを私ではなかったんです。マシンをどうすべきか分かってはいましたけれど、私がコーリンに敬愛し過ぎていたようです。実際、いつでも“Sir(尊敬を込めて)”と呼んでいましたけど、間違いでした。コーリンはあらゆる状況において強く主張するドライバーを求めていました。そして、必要な情報を手に入れ彼が持ちうる技術を余すことなく発揮して、勝利するマシンを造りたかったのです」

このことに気づいたのは、オリバーがBRMでチームオーナーであったルイス・スタンレーと喧嘩したときだったという。ロータスでの過ちを繰り返さないために、BRMでは強く主張するも…、スタンレーはそのようなドライバーを必要としていなかったとも。

ヒストリックカー・レースに魅了される


オリバーのレーシングドライバーとしてのキャリアは、1970年代には輝きを潜めていった。そして、1977年末にはアロウズを設立。金策に翻弄された日々は、また別な機会にでも取り上げることにして、最終的にはアロウズをトム・ウォーキンショー率いるTWRに売却した。オリバーは大人しく余生を過ごすのではなく、チャールズ・マーチ卿が主催するヒストリック・レースに惹かれるようになった。

「チャーリー(マーチ卿)が、グッドウッド・リバイバルにでも参加しないかと誘ってきたんです。私はかつてグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードで様々なマシンを走らせていたからです。もう20年も走っていませんでしたし、ライセンスもなかったんですけどね。そうしたらチャーリーが『ライセンス取得は簡単だ』と、私が走らせるために1950年代のポルシェを持っている人がいると話を進めてくれました。レース後、チャーリーが“楽しかっただろう。また走るか”と聞いてくるので、もっと大きなエンジンを積んだマシンを運転したいと伝えておきました。グリッドの後方は好きじゃないんですよね」とオリバーは回想する。レーシングドライバーは現役を退いても、闘争本能に溢れているのだ。

レース魂に再び火がついたオリバーはBMWTiSA、フェラーリ250GTショートホイールベース、シェブロンB16、そしてケン・ベイカーの古いEタイプまで、あらゆるレースに参加することになった。

エランと再会


ある時、友人がオリバーにエランの行方を知っていると告げ、興味の有無を尋ねてきた。もちろん、オリバーは興味を示し、久しぶりにエラン26Rが手元に戻ってきた。2012年、グッドウッド・リバイバルのフォードウォーター・トロフィ―にエントリーし、マーティン・ストレットンが乗るイアン・ウォーカー・レーシングのエラン・クーペ(通称ゴールドバグ)に次ぐ2位に入賞した。



実は、『Octane』誌では、このグッドウッド・リバイバルでの活躍前に、エラン26Rを所有していたマイケル・シュライバーに試乗させてもらう機会を得ていた。インテリアは、ドア周りを支える軟鋼製フレームをはじめ、グラスファイヤーのボディが完全に剥き出しで、何の飾り気もない。パースペックス製のアクリル窓は、薄っぺらく折り畳めそうな雰囲気だった。

“ノーマル”のエランが繊細さとバランスに優れているのに対し、26Rはよりダイレクトな緊張感を味わうことができる。ツインカム特有の轟音は回転数が上がるにつれて力図良さが増しハーモニーへと変わり、どの回転数でもアクセルペダルの入力に対して即座に反応する。26Rが現役だった頃、エース級のドライバーが運転すれば、もっと高価でエキゾチックなマシンをも屈服させることができたというのも頷ける。

オリバーは他人の車で参戦するレースで忙しく、実はエランを使う機会はほとんどなかった。御年79歳になるジャッキー・オリバーは、そろそろ"ヘルメットを脱ぐ"ことも考えているようだが、本人よりも周囲がそれを望んでいるように感じられる。だからこその売却なのだが、新しいオーナーとなったフレミング・ヴィクトール・アンデルセンは、以前26Rでレースをしていたこともあり、このロータスは少なくとも良家に嫁ぐことになる。奇しくも彼は、オリバーの妻ドルテと同じデンマークのオーフス出身である。

ジャッキー・オリバーは引退の決心がついている。

エラン26Rに別れを告げるのは悲しいことのようだが、オリバーのガレージに収まっているか否かは重要ではない。ジャッキー・オリバーがレーシングドライバーになるきっかけを作ったこの26Rは、いつでも彼の車なのである。

オリバーの人生を変えたエランは、間もなく旅立つ。


1964年 ロータスエラン 26R
エンジン:1558 cc、水冷、直列 4気筒 DOHC
燃料装置:ウェバー製 DCOEキャブレター×2基
最高出力: 140bhpトランスミッション:4段 MT、後輪駆動
ステアリング:ラック&ピニオン
サスペンション(前):ダブルウィッシュボーン+コイルスプリング+テレスコピックダンパー+アンチロールバー
サスペンション(後):スライド・スプライン式ハーフシャフト+コイルスプリング+テレスコピックダンパー+アンチロールバー
ブレーキ:ディスク 車両重量: 576kg


編集翻訳:古賀貴司 (自動車王国)  Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom)
Words:James Page Photography:Olgun Kordal

編集翻訳:古賀貴司 (自動車王国)

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