パリダカに挑んだ、レンジローバーとアウディ・クワトロの融合マシン

Max Serra



クワトロ+レンジローバー


“ローバー・レンジV8プロト”はフランコに多くのことを教え、1985年には後継車が誕生した。レンジローバーのシャシーとエンジンを大幅に改造し、今度はアウディ・クワトロのボディとマッチングが試みられた。

「私が手掛けるレーシングカーでは損をしないように、研究や製作にかかる費用を厳選した大口スポンサーで賄いながら、最終的には利益が出ることを目標としてきました。そのためには想像力と、既存の技術を最大限活用することが必須です。また走らせるだけでなく、砂漠の真ん中でメンテナンスしたり、容易に修理したりすることができるものを目指していました」

フランコのビジネスマンらしさが垣間見える話である。しかし、なぜアウディ・クワトロのボディだったのか。「普段、私が乗っている車がアウディ・クワトロだったのです。ただ、パリ-ダカール・ラリーに不向きなことは明白でした」とフランコは回想する。

なぜなら、前年のラリー・デ・ファラオンで、アウディのワークスチームが2台出走し、2台ともリタイアしていたからだ。2回のスティントで、エンジンの温度が下がりすぎてオーバーヒート。ターボを搭載したエンジンはもともと非常に高温で、エンジンルームには空気の流れを改善するスペースはなかったという。

「私のアウディ・クワトロを分解し、そのボディをテンプレートにして、グラスファイバー製ボディパネル用に型を造ることにしました。自分専用のマシンを含めて3台のコンプリートカーを製作し、さらに3台のシャシーを販売しました」

フランコ・デル・パオリの工房でレンジローバーのシャシーとアウディのボディが合体。

フランコが解決しなければならなかった問題のひとつは、アフリカのレースで最もストレスのかかる部品であるサスペンションだった。そして、フランコのチームは後年、レンジローバーが( BMWやポルシェと同様に)コンセプトを真似るほど優れたエアスプリング・システムを開発した。コイルスプリングは圧縮時の荷重が、伸長時には2倍になってしまう先天的問題を抱えていた。サスペンション・トラブルの約9割は、コイルスプリングに起因するもので信頼性が損なわれてしまう。

「エアスプリングを標準的なリジッドアクスルにテレスコピックダンパーと、リアデッキはパンハードロッドと組み合わせたものを思い浮かべていました」

行動力あるフランコは即座にピレリに協力を依頼したことで、アメリカのデルコ製に特別なコンプレッサーを入手することができたそうだ。その結果、開発されたシステムは巧妙だった。

「私のセルフレベリング・エアサスペンションシステムでは、エアスプリングがコイルスプリングの代わりとなり、コ・ドライバーが制御できるコントローラーに接続されています。各アクスルにはレベラーを備えており、セッティングに応じて電動コンプレッサーが必要な量と圧力の空気を供給します。高速走行が快適なだけでなく、このシステムに高い信頼性があることが証明されました。最終的にピレリが権利を買い取り、フィアット・デイリート(現在はイヴェコ)は今でもこのシステムを使用しています」

エンジンはローバー製を流用していた。ローバー3.5のエンジンに後発の3.9リッター型が採用していた電子制御式燃料噴射装置を組み合わせ、最高出力230bhp/5400rpmを誇っていた。ローバー3.5の純正品であったルーカスインジェクションは、常に問題を抱えていたが、後期モデル用の電子制御式燃料噴射装置は遥かに優れた製品だったそうだ。

ボンネットに収まるV8エンジンはアウディの 5気筒ターボではない。

エンジン搭載位置をファイヤーウォール側に移動させ、前後重量配分は50:50を実現していた。1986年当時、未舗装路を200km/hで走り、信頼性が高く(ギアボックスとディファレンシャルはレンジローバーの純正品)、ラジエーターは手を加えることで優れた冷却性能を誇り、シート後ろには450リッター燃料タンクを備え、航続距離1000kmのマシンが完成した。

パリーダカール・ラリーでの疾走風景は多くの人を魅了した。

「この車で問題が起きたことは一度もありません。1986年の走行中にリタイアを余儀なくされたのは、レンタルしていたサポートトラックが原因でした。スタートしてしばらくは完璧でしたがアルジェリアを出てニジェールに入ったとたん、トラックが行方不明になってしまったんです。総合10位だったのに予備のダンパーもエアフィルターもオイルもタイヤもないという状況に陥ったのです。最終ステージのテネレでは、強烈な砂丘を走破した後、タイヤ2本のパンクに見舞われました。それでラリー続行を試みたのですがタイヤは限界でマシンを失う危険を冒すよりも、延命させる選択をしてUターンすることにしました」

サポートトラックが行方不明になったの理由は、ニジェール入国時に入国審査官に“心づけ”を手渡していなかったからだった。全積荷を降ろして申告書類の照合を余儀なくされ、結局はアルジェリアに戻らなくてはならなかったそうだ。そこでフランコとコ・ドライバーはアルジェリアに向かうも、オランダ人のコ・ドライバーが適正なビザを保有していないことが判明。唯一の解決策は、700kmも続く砂漠のアガデスに車を走らせ、領事館でビザを取得することだった。

「ロードブックはフランス語の手書きで、単語を読み間違えて35チームが100km先まで迷い込んだこともありました。アフリカ大陸をGPSが使えずに走ると、ちょっとのミスコースで、気づかないうちに大きく遠回りしてしまいます。ロスタイムを取り戻そうとすると、また迷います。100kmミスコースしたら、来た道を戻るので100km走らなければなりません。そして、気づいたら柔らかい砂の中に入ってしまいマシンはスタック…。掘り出すのに5時間費やすことになるんですよ」と、GPSが無かった時代を振り返った。



現在ではGPSがあれば、とにかく速く走りさえすればいいのだ。ヨーロッパのスペシャルステージとはちょっと違う。ただ、プライベティアによるパリ-ダカール・ラリーへの挑戦は厳しい。資金力の問題というよりも、ワークスたちと張り合える車両がないことだとフランコは指摘していた。

「夜のキャンプの雰囲気や、他の選手たちとの会話、満天の星空を楽しんだことも懐かしいですね」 



1986年のパリ-ダカール・ラリー参戦後、“レンジローバー・アウディ”はグラスファイバー製のドア、新しいダッシュボード、新しいフロントフードなど、改良が加えられた。そしてラリー・ド・アトラスや1987年のパリ-ダカール・ラリーにも参戦。その後、売却された。

蘇った“レンジローバー・アウディ”


しばらくは行方知れずであったが最近、フランスで3人目のオーナーの手に渡ったことが分かった。2019年 8月にイタリア人コレクターが購入し、フランコ・デ・パオリの自宅にあるプライベートショップにてレストアが施された。

シャシーやエンジンがレンジローバーの譲りであることを知りながら運転してみると、クラシックなレンジローバーがステロイド摂取したことを感じ取ることができる。エアサスペンションシステムがもたらす乗り心地は、まるで“空飛ぶ絨毯”。V8エンジンのエグゾースト音は、想像していたものよりも遥かに静かなのには驚かされた。

レストアの一環として、1986年のパリ・ダカールで使用されたカラーリングに戻された。参戦時の写真(下)と見比べると、タイムマシンから飛び出してきたかのようだ



「1日20時間、1カ月ずっとコクピットで過ごすことを思い浮かべてください。雄叫びをあげるエンジンは、ちょっとの時間ならエキサイティングですけど、長時間・長期間は辛いですものですよ…」とフランコは目を細める。1万km以上におよぶ砂漠のラリー、参戦者たちは“しゃかりき”に走っているのかと思いきや…、思いのほかリラックスしながら走っているようだ。もっとも、参戦者たちの“リラックス”は一般常識とはかけ離れていそうではあるが。


1986年式レンジローバー・アウディクワトロ・プロト
エンジン:3528cc、OHV、V8、ボッシュ製電子制御式燃料噴射装置
最高出力:230 bhp/5400rpmトランスミッション:5段 MT、2段トランスファー、フルタイム4 WD、
3個のディファレンシャルを備えたセントラルビスカス制御を含むファーガソン方式
ステアリング:ウォーム&ローラー、パワーアシスト付き
サスペンション(前/後):リジッド型、ウィッシュボーン式、リヤ・パナールロッド、
空気圧式スプリングユニット(調整可能)、スプリングユニット(高さ調整可能)、
ダブルロングストローク(高さ調節可能)、ダブルロングストローク・テレスコピックダンパー
ブレーキ:ディスク 最高速度:125 mph


編集翻訳:古賀貴司(自動車王国)Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom)
Words:Massimo Delbo Photography:Max Serra

古賀貴司(自動車王国)

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