米国史上最重要のドライバー?│バーニー・ オールドフィールド

Photo : grand prix library

欧米では、警官がスピード違反者に対し忠告するときに有名なレーシングドライバーを引用することがある。英国なら未だにスターリング・モスが一番よく使われている。20世紀初頭から半ばまでの古き良きアメリカでは、警官は「お前はバーニー・オールドフィールドだと勘違いしてるんじゃないか?」と説教していた。

バーニーは、米国大衆文化の頂点に立った初めての
レーシングドライバーで、以後彼に匹敵する者はいない。人気の絶頂期には高級誌の見出しを飾り、トレーディングカードにもなった。しかも10を超える映画に主演している。1906年には、ブロードウェイのミュージカルにも出演した。アメリカで最も人気のあったスポーツマンで、自動車レースをお金持ちの道楽から、大衆に受けいれられるスポーツに変革させることに貢献した。

バーニーが大衆に受け入れられたのは、彼の人生が
アメリカンドリームを体現していたからだ。1878年にオハイオの貧農に生まれ、11歳の時に一家は仕事を求めて都会へ移り住んだ。12歳で学校をやめ、さまざまな仕事に就いた(後に初めて運転したものはホテルのエレベーターだと語っている)。1894年には自転車レーサーとしてデビュー。1902年にヘンリー・フォードから、有名な"No. 999"の操縦を頼まれたときには、まだ彼は自動車を運転したことがなく、教習を受けなければならなかったという。

"No. 999"は排気量1万8800ccという怪物エンジンを搭載、サスペンションは無きに等しく、ステアリングも自転車と同様のハンドルバーだったので、経験あるドライバーであったなら拒否しただろう。しかし、初のマッチレースでバーニーは怪物をパワースライドさせながら、相手を0.5マイルリードして勝利した。勝った相手はアレグザンダー・ウィントンだった。裕福なウィントンは自動車メーカーの社長であり、マシンの評判も良く、米国で最も有名なジェントルマン・ドライバーでもあった。その金持ちが敗れ、貧しい出自のバーニーが勝ったのだから大衆は大喜び。バーニーは(フォードも)そこから成功していく。

それ以降、バーニーは上手くやった。富と名声のた
めに、通常のレース以外に田舎のお祭りのサーキットなど、お金を払う観客がいればどこでもレースをした。人を呼ぶために自分を「銀河一の名ドライバー」と称し、レース相手には金を握らせ脇役を演じさせた。バーニーのレースショーはサーカスのように、移動には専用の鉄道車両を使用した。派手な衣装に、事故で欠けた歯のクッションとして、火のついていない葉巻を常にくわえていた。そして群衆に向かって叫んだ「私を知っているでしょう。バーニー・オールドフィールド!」

米国自動車協会(AAA)は彼の派手なショーを批判
した。アルコール依存症であった彼の粗暴な行為は褒められたものではなく、あるレースではボーッとしていて、スタートで1コーナーのフェンスを突き破ったまま直進するほどであった。これらにより、彼はしばしばAAA主催のレースへの参加を禁止された。インディ500で2回の5位入賞、ヴァンダービルト・カップでは2位の成績を残したが、ラルフ・デパルマの登場により勝ち目のないことを知らされ、1918年に40歳でレースを引退した。

引退後は役者の仕事を広げ、自動車業界に拾っても
らうつもりだったが、気難しいアル中に〝空いた席〞はなかった。1929年の大恐慌で破産後、どうにか宣伝の仕事をもらい食いつないだ。ハドソンのテスト走行をしたり、プリマスでは安全運転(!)の講義もした。

1946年10月、バーニーは68歳で就寝中に安らかに
死んだ。彼の望みは、満員のスタンドの前で最高な車の中で死ぬことだった。その時、観客全員に「バーニーは凄いことをやっていた…」と言って欲しいと生前に彼は語っていた。だが彼の望みは叶わなかった。

編集翻訳:須川正道 Transcreation : Masamichi SUGAWA 原文翻訳:木下恵 Translation : Megumi KINOSHITA Words : Dale Drinnon 

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