「キング・ケニー」「ステディ・エディ」「ミスター100%」 WGPレジェンドライダーが11月、鈴鹿に登場!

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ウェイン・レイニー

Wayne Rayney
・1960生 国籍アメリカ
・WGP時代のライバル:E・ローソン、K・シュワンツ、W・ガードナー、八代俊二、etc.
・タイトル:1990~92年 3年連続WGP500チャンピオン。1983年、1987年 AMAスーパーバイクチャンピオン


幼少期からオートバイレースの英才教育を受けて育った彼は、14~15歳の頃には既にアメリカでは名が知れるライダーに育っていた。

AMAで1981、82年連続でタイトルを獲ってWGP500に活躍の舞台を移したE・ローソンの後釜を探していたUSカワサキは、以前から目を付けていたレイニーと契約を交わし、彼は期待通りその年83年にAMAの賜杯を手に入れた。

母国の後輩ゆえか、この類稀な才能をどこよりも早く見抜いていたのがK・ロバーツだった。1983年に現役を引退し、自ら立ち上げたチームのエースライダー(WGP250ccクラス)にレイニーを招聘し、ここから彼の本格的なWGP挑戦の幕が上がった。

しかし、残念ながら発足したてのチーム故の課題も多く、結果は惨めなものに終わったがしかし、その年の秋、ロバーツは彼に大きなチャンスをプレゼントした。

秋に仙台のスゴウで開催されるTBCビッグロードレースで、彼のライディングを待っていたのはマールボロカラーのYZR500のシートだった。



それまで2ストロークマシンの経験は250ccしかないレイニーとって、モンスターYZR500は初体験だ。周囲の目は「はたして乗りこなせるのか?」といった興味半分の心配もあったが、それを吹き飛ばし安定した走りで水谷勝に次ぐ5位に入賞。

ここでの高評価は彼だけでなく周辺も、いよいよ翌年は500ccクラスへステップアップを、、、と期待したのだが、無念にもそのシート開かず、やむなくホンダに移籍し、再びAMAスーパーバイクの舞台に戻ることになる。

そしてAMA3年目のシーズン、1987年に2度目のチャンピオンをとり、ロバーツ(ヤマハ)は再び契約の話を彼に持ちかけた。

「1988年にロバーツと契約してからの彼は、まさに水を得た魚だった」(河崎裕之氏 談)のとおり、見事にWGP500のタイトルを勝ち取って見せたのだ。

翌1989年は、ヤマハからホンダに移籍したローソンに敗れてランキング2位に甘んじたものの、1990~92年と3年連続してチャンピオンを獲得したが、これはロバーツ以来の快挙で、「さあ、4年連続の大記録!」も目前の1993年、ランキングトップで向かえた第13戦イタリイアGPで転倒し、下半身不随の重傷を負ってライダー人生を終えることとなった。

そして迎えた1994年、自らが立ち上げたチーム(マールボロYAMAHA チームレイニー)で臨んだスズカGP、そこに彗星のように現れた天才ライダーが阿部典史(ノリック)だった。長い髪をなびかせ、フルアクセルでブラックマークを残しインに切り込むダートトラック仕込みのテクニックを駆使してトップ争いを繰り返すノリックに感動し、彼を自らのチームに招いた話は今や伝説ともなっている。



SUZUKA Sound of ENGINE 2019
開催日時:2019年11月16日(土)・17日(日)
開催場所:鈴鹿サーキット国際レーシングコース・パドック
主催:鈴鹿サーキット
公式サイト:https://www.suzukacircuit.jp/soundofengine/

文:大林誠二 Words: Seiji OBAYASHI

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