2台のレアなトライアンフ“イタリア”の違いは?|アングロ ”イタリアン”・ハイブリッド【前編】

Charlie Magee

ここは1960年代に流行った、冷戦スリラー小説の舞台のようなロンドン中心部の地下ガレージだ。洒落たジェットセッター達がこの素敵なトライアンフで集う場所というより、さながらスパイのコンタクトポイントのようだ。だがそうしたことはこの車のオーナー達にとっては気にならないに違いない。彼らはお互いの愛車を並べ、門外漢にはまったく同じに見える両者について、細かなコーチビルドの違いを探して比較するのに夢中なのだ。

奇跡の再会

リンカーン・スモールとマーク・ゴードンはロンドンに暮らす隣人同士だが、ふたり揃って、一般的にはとてもレアといわれる車を所有したことで新しい発見があるという。マークはシルバーのトライアンフ・イタリア 2000のオーナーで、これは329台が造られた8番目といわれている。もう一方の車との違いは、トランク内に給油口を持つこと、テールライトの取り付けかたなどである。また、ベルトラインについても、リンカーン・スモールが所有する白のそれよりも段差が控えめであることがお分かりだろうか。彼らの熱っぽい会話からは、ふたつの疑問点が浮上した。第一に、英国ではポピュラーだった自国産のスポーツカーをベースとしたにもかかわらず、当時、英国内では1台も販売されなかった希少な2台が、どのようにして英国に渡ってきたのか。第二には、2台が約1000kmの距離と約半世紀の時間を超え、広い英国の中でも至近に住むふたりのエンスージアストの元に、どのようにして落ち着き再会したのかである。その答えは簡単に見つかるかもしれないが、トライアンフ・イタリア 2000の生い立ちを解読するのは、そう簡単ではない。

イタリアンデザインの時代



1950年代は、イタリアのカーデザイナーたちが頂点に達した時代だった。その流れは大メーカーを含む世界中に影響をおよぼした。英国のスタンダード・トライアンフ社は、ジョヴァンニ・ミケロッティによる、"市場受けのよいデザインの才能"に頼って、この流れの中で一歩先んじることができた。同社でのミケロッティの仕事はよく知られることになり、彼の長年のコラボレーターであるアルフレード・ヴィニャーレを引き込むことも多かった。

トライアンフ TR3ベースのスペシャルは、彼らのスタンダード・トライアンフでの仕事の飛躍のきっかけとなった。当初、1957年のジュネーヴ・ショーで、ワンオフのショーカーとしてお披露目されたが、それはドナーカーの片鱗をまったく感じさせないデザインであった。ミケロッティはデトロイトのドリームカーから得たインスピレーション、すなわちはっきりしたテールフィン、車全幅のクロームメッキのフロントグリル、ボンネットの金メッキのエアインテーク、ヘッドライトの"眉毛"、また内装には新しい意匠のダッシュボードと豹革をあしらった黒のレザートリムなどを盛り込んだ。この仕事は本社の了承を得、ミケロッティとヴィニャーレによるコラボレーションが、この時期のスタンダード・ヴァンガードのフェーズ3からトライアンフ・ヘラルドのすべてにおよんだ。ちなみに、このワンオフのショーカーはモデナで健在である。

"Progetto Italia”



だが同じく、ミケロッティとヴィニャーレが関与したトライアンフ・イタリア 2000は辛苦を極めた。これは、トライアンフのイタリア代理店を営むサルバトーレ・ルフィーノが、実用本位で野暮ったいTR3にイタリアンデザインのボディを架装して販売するという計画であった。ルフィーノは、これには必ず需要があると確信していた。

ルフィーノは1913年4月シチリア島のパルレモ近郊で生まれた。独立心の強かった彼は、高校を卒業すると本土に渡って職業を転々とし、第二次世界大戦中はレジスタンスの一員でもあった。終戦後、車好きであった彼はイタリア石油公団のアジップに職を得て、その後1953年にスタンダード・トライアンフのナポリのディーラー権を獲得する。同社のラインアップの中でもTR3が最もマーケットの需要に合うと考えたルフィーノは、その販売を通じて、英国の性能と技術にイタリアンデザインのボディを融合させるというアイデアを思いついた。それは1956年のクリスマスのことだった。  

彼は当初、このアイデアをザガートのデザインで具現化するつもりであったが、ザガートが提示したデザインには納得がいかなかった。そこですでに1957年にTR3ベースのスペシャルを完成させていたミケロッティに白羽の矢を立てた。ミケロッティは、TR3Aのランニングギアをベースとしてカロッツェリア・ヴィニャーレによる、"Triumph Italia 2000 Coupe Vignale"を1958年のトリノ・ショーのために完成させた。拡大されたグラスエリア、透明カバーのついたヘッドライトで完成した、いわゆる"ドループ・スヌート(垂れ鼻)"のフロントエンドが特徴だった。ルフィーノ自身が"Progetto Italia(プロジェクト・イタリア)"と呼んだこのプロトタイプは、英国の高速テストコース、M.I.R.A.に持ち込まれ、ドアとボンネットをアルミ製にした軽量化の効果もあって、最高速度は向上したが、冷却に問題があることが判明した。デザインは『Road&Track』誌でも高評価を得て、「おそらくイタリアで最も多才なデザイナー、ミケロッティによる、より美しいトライアンフ TR3を待ち望んでいた人々にとって待望のニューモデル」と評した。



2番目のプロトタイプは、翌年のジュネーヴ・ショーでカロッツェリア・ヴィニャーレのブースに展示された。それは、前年とは打って変わって、ぶっきらぼうとも言えるフロントのスタイリングが変更されただけでなく、全体が現実的なものになっていた。ルーフラインが持ち上げられたのは居住性を意識してのことだろう。この2番目の車は生産を意識したプロトタイプの可能性があったが、スタンダード・トライアンフ社へのプレゼンテーションは、その年の秋のトリノ・ショーまで持ち越された。反応はポジティブで、ルフィーノによる量産化の計画を後押しするには十分な手応えだった。彼の読みは年間1000台の生産だったが、その前にまずスタンダード・トライアンフ社からのサポートを確実にするという課題があった。自社製品のイタリア製バリエーションの登場は本社でも評価され、社長のアリック・ディックは、トリノのチリアーノ通りに本拠を置くカロッツェリア・ヴィニャーレの工場に十分なキャパシティがあることを知って賛成。プロジェクトをサポートするため、トリノにスタンダード・トライアンフ・イタリア S.p.Aを設立した。ベースの TR 3 A より高価な250万リラという価格にも関わらず、成功は約束されたように見えた。1959年 12月に、トライアンフ・イタリア 2000はかつて例を見ない、伝統のコーチビルドの手法と最新技術のコラボレーションによって生産が開始された。そのスティール製ボディシェルはボルトと溶接(後端部)によってシャシーに固定された。



トライアンフ・イタリア 2000のカタログは、そのミックスされた文化をアピールした。「最も優れた英国のスポーツカー・エンジニアリングとイタリアンボディワークの融合」とし、「ルフィーノ SpAインダストリア・コストルツィオーネ・オートモビリは、国際クラスの新型 GT、トライアンフ・ イタリア 2000クーペを発売。スタイリングは世界的デザイナーのひとりであるジョヴァンニ・ミケロッティ。製作は造形の芸術家アルフレード・ヴィニャーレ。トライアンフ・イタリア 2000 クーペは美しいボディと定評あるトライアンフ TR3Aのシャシー・エンジンを合体。国際発表の瞬間から、専門家、スポーツカーエンスージアスト達は比類のない素晴らしいボディラインと卓越したパフォーマンスの合体を喝采した」と謳い上げた。 

"イタリア"の名称はルフィーノが当初から決めていたもので、彼はイタリアの戦後復興をこのモデル名に託した。唯一の英国ブランドの痕跡といえるのは、リアフェンダーのサイドに貼られた"TM トライアンフ"のバッジだけだった。"TM"は telaio e motore 、イタリア語でシャシーとエンジンの意味であって。一方、カロッツェリア・ヴィニャーレのロゴはプロトタイプでは著しく小さい。

【後編】に続く。


編集翻訳:小石原耕作 (Ursus Page Makers) Transcreation: Kosaku KOISHIHARA (Ursus Page Makers)
Words:Richard Heseltine Photography:Charlie Magee

編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers) Transcreation:Kosaku KOISHIHARA(Ursus Page Makers)  Words:Richard Heseltine

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