祝福の地のセヴン|亡きトニー・ドロンの愛車で、オースティン・セヴンの祭典に参加する

Barry Hayden

2022年、オースティン・セヴンは発売100周年を迎えた。『Octane』のマーク・ディクソンはこの特別な日の取材に、友に捧げる特別な一台を選んだ。



それがたとえどんなボロ車であっても、運転することに喜びを見いだせることが本当のエンスージアストの証と言えるのではないだろうか。そして、今は亡きトニー・ドロンほど、その典型であった人はいない。

筋金入りのセヴン乗り


長年『Octane』への寄稿者であった彼は、2011年の号でピエロ・ドローゴ製ボディのフェラーリ250GT SWBコンペティツィオーネをグッドウッド・リバイバルで走らせたレポートの数ページ後ろで、当時購入したオースティン・セヴン・サルーンについて熱っぽく書いている。

トニーが最初のセヴンを買ったのは彼が11歳の時だった。1950年代当時大流行していたスペシャルを造ろうとしたのだが、失敗に終わった。その後、彼の最初の実用車は1964年に30ポンドで購入した1932年製のセヴン・ボックス・サルーンだった。そして、彼にとって最後のクラシックカーもまた1932年製ボックス・サルーンで、6フィート3インチのショートホイールベースの最終モデルであり、今回登場のこの車である。

「私は身長195cmだが、それにもかかわらずセヴンの車内では常に快適だった」と『Octane』No.93で語っていたが、もともと昔からトニーは小さな車が好きだったのだ。実際彼が晩年日常的に使っていたのは、シトロエン2CV、ダイハツ・シリオン(ストーリア)、フォード・フィエスタなどであった。いわゆる世に言う一般的な車好きではなかったことの証明でもある。

トリビュート


トニーは肺の病との長い闘いの末に2021年11月16日、この世を去った。しかしその直前の7月、彼はケンブリッジシャーの自宅から往復330マイルを3日間かけて、たったひとりで運転してハンプシャーのビューリーで開催されたセヴン・クラブのラリーに参加したのである。もし彼がもう少し長生きしていたら、2022年7月、1000台近いセヴンとそのオーナー達が美しいコッツウォルズ地方に集結したセヴン100周年記念式典に、この特別な車を持ち込もうと張り切ったに違いない。トニーが来られなくても、せめて彼の車だけでも、だ。

30年来の友人であり、同僚でもある私としては 彼の愛車でイベントに参加することが弔いであり、感動の旅になると思った。ありがたいことに、未亡人のカリスもこのアイデアを気に入り、計画は現実のものとなった。セヴンは、まずトレーラーでオックスフォードシャーの私の家に運び、そこからイベント会場までの30マイルほどを走らせようというのである。カメラマンのバリー・ヘイデンには、セヴンは現代のカメラマンの典型的な装備、すなわち撮影用照明や巨大な三脚、レンズで膨れたバッグなどを運ぶようには設計されていないぞと警告しておいた。



これではまともな仕事にならないだろうが、ある土曜日の早朝、バリーはセヴンの後部にキャリーバッグを詰め込み、私たちは座席に詰め込まれた。トニーの長身痩躯は有名で、そのため運転席の座面クッションを急な傾斜のくさび型にして膝を高くして運転できるようにしていた。私自身の身長は彼ほどではないものの185cm以上はあるので、運転席のドアから足を引きずり出すのは大変だった。トニーは明らかに私より体が柔らかいようだ。

クラス初の「本物の自動車」


廉価なファミリーカーではあるが、セヴンのダッシュボードにはスイッチやメーターが多く、スターターモーターは助手席の足元に追いやられている。ペダルはオルガン式で、ON/OFFスイッチのようにいきなり繋がる有名なクラッチのペダルを思い出し、履き物はレーシングシューズもどきを選んだ。私は大足なので狭いレッグルームと神経質なクラッチに気を遣ったのだ。



最も肝心なことから話そう。進角レバーはステアリング・ホイール中心にあって、左が最遅角だ。トニーは進角/遅角レバーの正しい使い方には非常にこだわっていた。イグニッションスイッチをオンにし、チョークを引いてから床のトランスミッショントンネルの脇にあるスターターボタンを踏むと、セヴンの小さな747cc4気筒サイドバルブエンジンはすぐに目覚める。ミシンのような音と感触。スロットルを踏み込むと、古いシンガーミシンでカーテンを急いで縫っているような感覚になる。





このセヴンのエンジンはリビルトされてからまだ35マイルしか走行しておらず、慣らしの段階だが、優しい運転というのは口で言うほど簡単ではない。というのも、前進3段の2段と3段のギア比が離れているため、上り坂では2速でしっかり回すか、3速で苦労するかの選択を迫られるからだ。トニーが体調を崩して作業を続けられなくなったとき、彼の地元のクラブ、『ケンブリッジ・オースティン・セヴン・アンド・ビンテージカー・クラブ』が馳せ参じて、分解されていたエンジンを組み立てた。クラブの面々がこの作業に対する報酬を受け取らなかったことには感動させられた。

数マイル走れば、1/2インチしか踏み代のない文字通りの“ショートトラベル・クラッチ”にも慣れて不安はなくなるが、坂道発進ではクラッチコントロールで経験の差が出るかもしれない。1932年の『Light Car』誌では、デボン州南部に広がる湿原ダートムーアでのロードテストレポートで「湿原の中心部にある非常に急な上り坂のいくつかで、パッセンジャーを降ろす必要があった」と記録されているが、私は少なくともバリーを降して歩かせることはしなかった。嬉しいことに私の家からセヴンラリーまでのルートは、「そう、アドルストップを思い出すよ」という、エドワード・トーマスの詩で有名な美しい村アドルストップを通る絵に描いたような田舎道やBロードが続く、まさにセヴンのためのようなカントリーレーンだ。



夏の土曜日でさえも他の車にはほとんど会うことなく、収穫を待つ穀物が実る原を過ぎ、太陽の光を浴びる並木道を通る。このような晴天の下、時間に追われることなく、セヴンで旅するのは実に楽しい。狭い道で巨大な化物のような現代の対向車が現れても怖くはない。セヴンはとても小さいので生け垣に入り込めるからだ。また、しなやかなサスペンションは田舎の荒れやすいターマック舗装面にもよく馴染み、セヴンがトライアルカーに適している理由がよくわかる。セヴンにとっては超高速の領域かもしれない35mphまで引っ張ると車体は明らかにふらつき、テールはグリップを失いそうになる。ブレーキはどうなのか?



当時のこのクラスとしては希有な4輪ブレーキは、まあ、十分といえば言えるが、急坂を下ったところにあるT字路で停止する場合などでは一瞬不安になる。「相応に短い制動距離を得るためには、フットブレーキとハンドブレーキを同時に使う必要がある」という1931年の『Motor』誌のレポートをその時はまだ読んでいなかったのである。

祝福の地


ラリー会場となるグロスターシャー北部モートン・イン・マーシュ郊外の消防学校に到着すると、そこいらじゅうに何百台ものセヴンがとまっていて、驚かされた。この辺りはコッツウォルズ丘陵に比べると比較的平らな低地で、カレッジの広大な敷地はかつては空軍の飛行場だったが、今は樹木が生い茂り“まろやかになっていて”、今やクラシックカーの聖地となったビスター・ヘリテージのようだ。

見渡す限りセヴン。

そこにあらゆる年代、あらゆるタイプ、あらゆるコンディションのセヴンが、バーンファウンドの状態からコンクール・コンディションまで、会場を埋め尽くしていた。主催者は1000台以上のセヴンの参加申し込みを受理したが、そのほとんどが参加したようだ。他の1932年式の車達と一緒に展示エリアに案内された後、周囲を散策して足を伸ばす。『オースティン・セヴン・クラブ・アソシエーション』が素晴らしい仕事をしていることはすぐにわかる。一緒に訪れた誰もが楽しめるよう、トレードスタンド、オートジャンブル、子供向けのアクティビティ、そして大学の建物の一角にある特設のセヴン展などが企画されている。

1921年9月にはじまった55歳のハーバート・オースティンと18歳のスタンレー・エッジによる二人だけの構想から1939年7月の生産終了まで、数部屋を使用してセヴンの歴史を語り、資料も多数展示されていた。この展示は、イベント終了後にはゲイドンの英国自動車博物館に移されて2023年の夏まで展示される予定で、一見の価値ありだ。

もちろん、イベントの主役はセヴンそのものである。30万台生産されたセヴンのうち300台以上のワークスバージョンとコーチビルドバージョンがあったと記録されており、そのすべての代表がここに集まっているように思われた。サルーン、ツアラー、スポーツカー、レーサーなどあらゆるバリエーションに加え、看板を背負った商店のデリバリーバンやセヴン・ベースのスペシャルも並んでいる。中でも私のお気に入りは、美しくまとめられたアシュレイ750スポーツカーだ。グラスファイバー製ボディの仕上げは抜群で、多くのオーナーがこのキットを使って造り上げたいと思いながら、実現できなかった仕事のお手本である。

見事な仕上げのセヴン・ベースのアシュレイ750スペシャル。

もう1台、目を引くのがジョン・デイ氏の RAF英国空軍ラジオカーだ。「RAFがモールス信号を使って無線通信の実験をしていたときに製作さられたもので、3台現存するといわれるうちの 1台です。クラシックカーのイベントだけでなく、ミリタリーショーにも参加できるので、所有していて楽しい車です」とジョンは語る。

レアなRAF英国空軍のラジオカーに乗るジョン・デイ。

セヴンのオーナー達が車と同年代の老人達ばかりでないことは素晴らしいことだ。23歳のルイス・パーキンはガールフレンドのベッキーと一緒に、彼のゴッドファーザーの遺産で購入した1927年製のボックス・サルーンを持ってきた。

ルイス・パーキンとガールフレンドのベッキーがルイスの1927年製ボックス・サルーンに収まる。

「彼は世界一周の航空券代を遺してくれたのですが、私の父はセヴンに投じた方がいいと言ってくれたんです。この車はeBayで買いましたがなんと1950年代のTVコメディシリーズ『TheLarkins』のオリジナルで使われた劇用車そのものなんですよ。もう1台、ロックダウン中に造り上げたセヴン・アルスターのレプリカも所有しています。VSCC(ビンテージ・スポーツ・カー・クラブ)のシルバーストン・レースに参加しました。他のVSCC会員の若者たちと一緒にこれでノルマンディーへ休暇に行く予定なんだ」

セヴンのオーナー達はとてもフレンドリーで、一日中おしゃべりしたりトニー・ドロンが好きだったエールを飲んだりして過ごしたかったが、『Octane』の取材があるので残念ながら午後に行われるスピットファイアのフライパス見物を諦め、代わりにコッツウォルズの小道で撮影に没頭した。1920年代よりも若干整備されてはいるものの、この脇道はここ100年間ほとんど変わっていない。セヴンを運転していると、このような車が現代でも地方の交通手段としていかに重要であるかがわかる。

セヴンのスペアは豊富だ。

幸せな終末


トニーは、このセヴンを運転してお気に入りのパブに行くのが何より好きだった。その伝統を、未亡人のカリスは復活させ始めた。トニーがオースティン・セヴンで車との生活を始め、オースティン・セヴンで人生を終えたという事実は喜ばしい充実であると思う。だが偶然の一致はそれだけでは終わらない。ラリーから戻って数日後、カリスがメールを寄越した。彼女はトニーがセヴンを買ったときのレシートを見つけたらしい。日付は2010年11月16日。トニーが天に召されたのは2021年11月16日だった。




1932年オースティン・セヴン
エンジン:747cc、直列4気筒サイドバルブ、ゼニス・キャブレター×1基
最高出力:10.5bhp/2400rpm トランスミッション:3段 MT、後輪駆動
ステアリング:ウォーム&ホイール
サスペンション(前):リジッド式、ラジアスロッド、横置きリーフスプリング、レバー式アームダンパー
サスペンション(後):リジッド式、1/4楕円形リーフスプリング、レバー式アームダンパー
ブレーキ:機械式ドラム 重量:約500kg 最高速度:約50mph 0-40mph:37秒


編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers) Transcreation:Kosaku KOISHIHARA (Ursus Page Makers)
Words:Mark Dixon  Photography:Barry Hayden

編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers)

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