女性オーナーが鮮やかに駆る!ヴィンテージ・アルファロメオの物語

Tim Scott

ヴィンテージ期のアルファロメオ・グランプリカーで最も成功したマシンがティーポB(P3)である。ヨーロッパのグランプリだけでなく、インディアナポリス500にも参戦した。90年後の今も活動的な余生を送るこのマシンの歴史をたどった。



ジェニー・テイラーは、この伝説的な1934年アルファロメオ・ティーポB“P3”のオーナーだ。彼女の亡き夫ヒューは、アルファロメオを長年にわたって収集し、2005年にP3を手に入れた。ジェニーは、このシャシーナンバー“50007”に対する夫の情熱を受け継ぎ、これからも多くの人の目を楽しませようと決意している。



「彼女はどこへ行っても大人気よ。2019年にフロリダのカヴァリーノ・クラシックに連れていったら、皆が興奮して、何度も感謝されたわ。彼女はインディアナポリス時代でも有名だから、『帰郷させてくれてありがとう』とアメリカの人たちはいうのよ。2020年3月にアメリアアイランド・コンクールへ行ったときも素晴らしかった」



ジェニーが誇りに思うのも当然だ。所有するP3は、ヨーロッパとアメリカで出走し、第二次世界大戦を挟む両時代に活躍したのである。

最強のグランプリカーを目指す


アルファロメオ・ティーポB“P3”の原点は、1923年秋にさかのぼる。アルファロメオがエンジニアのヴィットリオ・ヤーノをフィアットから引き抜いたときにある。ヤーノの天才的頭脳と、それを失ったフィアットの痛手を物語るように、12カ月後、アルファロメオは最も先進的なレーシングカーメーカーとしての名声を獲得し、一方、フィアットはレースからの撤退を発表した。

移籍後のヤーノが最初に手掛けたのはグランプリカーのP2であり、これを得たアルファロメオはレーシングカーメーカーとしての伝説的地位を築いていく。P2は、156bhpの最高出力を発揮するスーパーチャージャー付き2リッターDOHC直列8気筒エンジンによって、6年間にわたってレースシーンを席巻した。

だが、1930年代初頭になるとP2も古さを感じさせるようになった。そこでヤーノは、6C1750用のスーパーチャージャー付き1750cc直列6気筒エンジンをベースに、2種類の新モデルを開発した。1台は、6Cと同じボアとストロークが65×88mmを持つ8気筒エンジンだ。機構的には4気筒ブロック2基を組み合わせた構造で、中央に配したギアトレーンで2本のオーバーヘッドカムシャフトで駆動した。スーパーチャージャーは1基で、右側に配置した。こうして誕生したモデルが名作の誉れ高い8C2300であり、モンツァのレースで成功を収めたことから、その名でも呼ばれた。

2台目がティーポBモノポスト、通称“P3”である。こちらの8気筒エンジンは2654ccで、ボアは65mmと同一だがストロークは100mmに伸ばされた。プレーンベアリングを採用し、8C2300と同様に2基の4気筒ブロックの間にタイミングギアを配置した。潤滑方式はドライサンプで、各気筒2個ずつのバルブ挟み角は104゜であった。2基のスーパーチャージャーは左側に備えられ、エンジンの前後に配置されたマニフォールドにそれぞれ過給した。

P3の機構的な特長は駆動系にあった。3段ギアボックスとディファレンシャルは直接つながれて、エンジン後方に置かれた。パワーはひと組のピニオン&クラウンホイールを介して2分割され、左右それぞれのリアタイヤに向けて伸びた2本のプロペラシャフトによって駆動された。車両を真上から見るとプロペラシャフトはV字形に配置されていることになる。構造は複雑になるが、そのぶん駆動系の剛性が高められた。

車重は700kgという異例の軽さに仕上がり、最高出力は5400rpmで215bhpを発揮したことで優れたパワーウエイトレシオ(3.25kg/bhp)が実現し、最高速は約140mph(225km/h)に達した。

P3は1932年にデビューすると、6戦で4勝をもぎ取った。1933年は2戦のみの出走だったが、どちらも優勝。アルファロメオの資金難でレース活動は停止し、6台製造されたP3も休息を強いられたが、その間も開発は続いた。

1934年にはグランプリのルールが変更され、エンジンの排気量は無制限ながら、最大車重が750kg以下と定められた。いわゆる750kgフォーミュラである。これに対応するため、P3のエンジンはボアを68mmに広げて排気量を2905ccに拡大、最高出力は5600rpmで255bhpに高められた。ホイールベースは2670mmに延長され、トレッド、タイヤ、ボディもすべて拡大された。

この新バージョンは、重量増加をわずか30kgに抑え、ブレーキとダンパーも改良されていた。デビュー戦は4月2日のモナコで、5台がエントリーし、フェリーチェ・トロッシ伯爵がドライブする1台がポールポジションを獲得。3週間後には、アレッサンドリアのチルクイト・ボルディーノで、ルイ・シロンが初優勝を飾る。ここから次々に勝利し、それはシーズン終盤にアウトウニオンとメルセデスが参戦するまで続いた。

スクーデリア・フェラーリ時代のP3


ちょうどその頃、モデナでは若きエンツォ・フェラーリがチームの基盤を築いていた。スクーデリア・フェラーリは、1929年の創設当時から成功を収め、大半はアルファロメオで出走していた。マリオ・タディーニ、アルフレド・カニアートに続いて、1932年初めにトロッシ(愛称は"ディディ")が会長に就任し、エンツォ・フェラーリの歴史において重要な役割を演じた。

トロッシは優秀なドライバーであるだけでなく、先見の明もあった。チームにスポンサーシップを持ち込み、アルファロメオとの関係でフェラーリの基盤を安定させたのである。 1932年、スクーデリア・フェラーリにアルファロメオから初めてティーポBモノポスト"P3"が供給されると、これをタツィオ・ヌヴォラーリがドライブし、コッパ・アチェルボで優勝を飾った。1934年シーズンには、進化版P3がフェラーリにも供給された。このとき9台製造されたうちの1台が、写真のシャシーナンバー50007なのである。

このアルファロメオP3では、1939年のインディ500に出走するために塗られた赤いペイントが今も残る。

どのマシンを、誰がどこでドライブしたのか、常に確認できるわけではない。とはいえ、はっきり分かっていることもある。このシャシーナンバー50007は、スクーデリア・フェラーリのカーナンバー047を割り当てられ、1934年シーズンには跳ね馬のカラーで走っていた。そして、マルセル・ルー、ルイジ・マリノニ、ギ・モル、マリオ・タディーニ、ディディ・トロッシ、アキーレ・ヴァルツィがドライブし、4月2日から10月21日までに27のレースに出走した。2.9リッターのP3は、1934年に20勝を飾り、4回にわたって表彰台を独占した。

1935年シーズン、スクーデリア・フェラーリのP3は、圧倒的な強さを見せるドイツ勢の前に、ますます苦戦を強いられるようになった。エンジンの排気量は3.2リッターに、その後3.8リッターに拡大。スクーデリア・フェラーリのドライバーは、アントニオ・ブリヴィオ、ルイ・シロン、ジャンフランコ・コモッティ、ルネ・ドレフュス、タツィオ・ヌヴォラーリ、マルロ・マリア・ピンタクーダ、マリオ・タディーニ、ディディ・トロッシと、錚々たるメンバーだった。

タツィオ・ヌヴォラーリ最高のレースといわれているのが、1935年のニュルブルクリンクだ。地力で上回るシルバーアロー 9台を倒して、P3でドイツGPを制した。カーナンバー9がヌヴォラーリ。

このシーズン最大のハイライトは、なんといってもドイツGPにおけるヌヴォラーリの伝説的勝利だろう。パワーで劣るP3を駆使したタツォオ・ヌヴォラーリは、勝利は間違いなしとの自信を持つシルバーアロー勢を下して、勝利を果たした。

50007を駆ったスペイン貴族


この前年、ホセ・マリア・デ・ヴィリャパディエルナ・イ・アヴェシリャ伯爵は、バルセロナ近郊モンジュイックで開催されたペーニャ・リン・レースで、初めてP3を目にした。マセラティ8CMでプライベートとしてエントリーしており、アルファのスピードに感銘を受けた。ヴィリャパディエルナは単なるドライバーではなく、スペイン屈指の富豪で、そのライフスタイルは、エヴァ・ガードナーやリタ・ヘイワースといった有名女優に彩られ、しばしば雑誌を賑わせた。自身のチームを立ち上げると、スペインのレースカラーのイエローに、自身のカラーであるグリーンのラインを入れたマシンで、グランプリに19回出走した。この人物こそ、シャシーナンバー50007の記録に残る最初の個人オーナーである。1935年秋に入手し、1936年には、ポー、チュニス、ペーニャ・リン、ブダペストでのグランプリや、ドーヴィルとチュニスでのレースに、P3で出走した。

レース活動には莫大な資金を必要とし、ヴィリャパディエルナほどの莫大な財産でさえも食い尽くされた。伯母名義の小切手を偽造したとして、伯爵がフランス国境で逮捕されたという新聞記事が残っている。その額面は4万1700ポンド(現在のおよそ300万ポンド)に上った。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.)

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