連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.13 アバルト・209Aボアノ

T. Etoh

今でこそアバルトはフィアットの1ブランドとして存在するにとどまっているが、1950年代から60年代にかけて、アバルトほどの名声を残したメーカーも数少ないだろう。オーナーだったカルロ・アバルトと親しかったアルフレッド・コセンティーノの著書によれば、アバルトは10のワードチャンピオンを獲得し10000以上のレースで勝利。ゴルディーニよりも多くのモデルを改造し、ロータスよりも多くの車を作り、ポルシェよりも多くの国際スピード記録を持つ…とある。

カルロ・アバルトはオーストリアに生まれ、後にイタリアの国籍を取得する。アバルトは1946年にピエロ・ドゥジオが立ち上げたチシタリアに技術部長として在籍した。しかしやがてチシタリアは破綻。チシタリアでレースをしていたグイド・スカリアーニとカルロ・スカリアーニの父である、アルマンド・スカリアーニがチシタリアの工場を買い取り、新たな社名、アバルト&Cを生み出すのである。こうしてスカリアーニの資金提供の元、アバルトの名を冠したブランドが発足する。

色々な人の話を総合すると、カルロ・アバルトはいわゆる猛烈な仕事人間だったようで、寸暇を惜しんで車の開発に明け暮れていたようである。最初にアバルトの名を冠して誕生したモデルは204Aと呼ばれるものだが、元々はチシタリアで開発が進んでいたモデルだったためか、記述によってアバルト-チシタリア204と呼ばれることもある。もうひとつその歴史を複雑にしていたのは、チシタリアの創業者、ピエロ・ドゥジオがアルゼンチンに逃避した後、ドゥジオの息子がチシタリアを再興し1963年まで存在していたためであった。

この204Aでアバルトは早速レースを始める。アルマンド・スカリアーニの長男、グイド・スカリアーニが「スクァドラ・アバルト」を組織。ドライバーの中にはタツィオ・ヌボラーリやピエロ・タルフィなどが含まれていた。

この頃からアバルトは車を製作する一方で、独自のスペシャルパーツの製造に乗り出していた。有名なアバルトマフラーが誕生したのもこの頃で、他にマニフォールドやウォーターポンプなども開発し、こうしたパーツの販売も始めている。それが直接的あるいは間接的にレース活動のリソースとなっていたのである。

初のアバルトだけの名を冠したモデルが誕生したのは1951年のトリノショーでデビューした205Aと呼ばれたモデル。ヴィニアーレのボディを纏っていた。

1950年代初頭、アメリカではヨーロッパ製のコンパクトなスポーツカーがブームとなっていた。恐らくは戦争後に軍人たちが持ち帰ったヨーロッパ製スポーツカーに対し当時アメリカにはなかったコンパクトスポーツカーのパフォーマンスに彼らが驚いたことに始まったのであろう。MG、ポルシェ、トライアンフといったモデルはその代表例である。

アバルトもそのブームに乗るべく、スポーツカーとレーシングカーを主としてアメリカンマーケット用として開発する。それが207A、208A、209Aという一連のモデルである。いずれも同じメカニズムを持ったモデル群で、そもそもはアメリカ、ニューヨークにあったPEVコーポレーションのトニー・ポンぺオという人物の発案によるものだったといわれる。トニー・ポンペオとジーノ・ヴァレンツァーノのが経営していたPEVコーポレーションは、少々変わった会社で、イタリアのいわゆるスモールスポーツカーを専門に扱う会社であった。有名なアルファロメオ、フェラーリ、マセラティには興味を示さず、SIATA、バンディーニ、スタンゲリーニ、ナルディ、モレッティ、それにアバルトなどの東海岸のインポーターとして活動していた。

207-208-209Aはアバルトが開発したモデルだが、メカニズムは基本をフィアット1100ベースとし、独自のボックススチールフレームに仕上げ、サスペンションはリアをリーフスプリングからコイルスプリングに変更していた。フロントも基本はフィアット1100用だったがこれも変更が加えてられてる。エンジンもフィアット1100用OHVの1.1リッター。しかし2基のウェーバー36DOEキャブレターを装備した結果、そのパワーはオリジナルの36psから30psもアップした66psとなっていた。さらにレーシングバーションは排気量を1270ccに引き上げ79psを絞り出していたという。この207Aはアバルトが作り出した初の量産レーシングカーで、これをベースとしたロードカーに仕上げたのが208Aと209A。前者がスパイダーで後者がクーペであった。



一連のシリーズはカロッツエリア・ボアノのボディを纏い、デザインはミケロッティが行っていた。ボアノはスタビリメンテ・ファリーナ、カロッツエリア・ギアを渡り歩いた後、1954年にカロッツエリア・ボアノを創業する。と言ってもその操業期間は僅か3年でしかない。創業当初からアメリカのクライアントの仕事を引き受けていたというボアノ、アメリカ向けの仕事は得意だったということだろう。恐らくは大きな期待を抱いて開発をしたアメリカ向けのシリーズモデル、しかしその生産台数は3種まとめて僅か12台にすぎない。しかもこのうち10台が207Aで、208Aと209Aはいずれもワンオフに終わっている。



ということで極めてレアな209Aは如何にもアメリカを意識したラップラウンドのフロントウィンドーを持ち、当時はかなり珍しかったであろう、リトラクタブルヘッドライトを持っている。デビューは1955年で、デビューは1955年で、トリノ及びパリモーターショーに出品された。その後アメリカに輸出され、シカゴショーでアメリカデビュー。そしてめでたくシカゴ近郊のプライベートオーナーの元へ嫁いでいった。



ポンペオの誤算は、その後この車に対するオーダーがなかったことだ。全12台作られた一連の207-208-209系のモデルのうち、209Aには006のシャシーナンバーが与えられていたようである。60年代になってもアメリカ各地のイベントなどに出品されていたようだが、それを見て購入したのがロッソビアンコのピーター・カウスであった。



そしてロッソビアンコ閉館の後、多くのモデルがオランダにあるLouwman Museumに引き取られ、今もこのアバルト209Aはこの博物館に展示されているようである。


文:中村孝仁 写真:T. Etoh

文:中村孝仁 写真:T. Etoh

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