思わず笑みがこぼれる「笑顔誘発マシン」|ランチア・ハイエナ誕生の背景

Barry Hayden

ザガートが手掛けたボディを纏うランチア・ハイエナは、ファニーフェイスではない。ただ、これほど頬が緩んでしまう車も少ないだろう。グレン・ワディントンがハイエナのステアリングを握った。



「ザガート」という言葉は「エキゾチック」の同義語であると思っているのは、私だけではあるまい。アルファ6C、フィアット8V、アストンマーティンDB4GTなどを思い浮かべてみれば、納得いただけるだろうか。車名に「ザガート」の名が足されると、どういうわけだか車の魅力がグッと高まる。というのも、ザガートはパーツの総和を超えた新しい息吹を車に吹き込んできたからだ。

ハイエナ誕生の背景


ザガート・ハイエナの歴史が1990年代初頭まで遡るとは、そのデザインからは信じがたい。エンジニアリングのベースとなっているのはランチア・デルタではあるが、ルーツはフィアット128を越えて、1964年のアウトビアンキ・プリムラまで遡る。BMCミニが築き上げた横置きエンジンによるFWDのテンプレートをフィアットが再解釈したもので、VWの名車ゴルフが誕生する以前の話である。

そう、これこそがハイエナのベースとなった、ありそうでなかったラリー優勝車のささやかな起源なのだ。エレガントな落ち着きに満ちたデザインを手掛けたのはジョルジェット・ジウジアーロで、“ほどほどに裕福な人々”のための、ミラノ市中での“ショッピングカー”として誕生した。そんな車がHFインテグラーレへと進化を遂げWRCに参戦しただけでなく、1987年から91年まで連続して優勝を飾ったのである。

このタイトルでは「笑顔誘発マシン」を謳ってはいるが、冗談のような存在で面白いのではなく、いたって真面目な車である。インテグラーレは、ごくありふれた機械的要素を持つ日常の車から、伝説的な存在へと昇華した。そして、ザガートがこの車に相応しい、フルヴィア・スポーツのような、小さなスターの伝統を受け継ぐボディを与えることになった。この時ばかりは、スポーツカーとしての成功がザガートによる変身の前にあった。ザガートはインテグラーレの威厳というか鈍重感により相応しいイメージを与えただけでなく、年季が入ったボディ・デザインの制約から解放させた。

ハイエナの中身について少し説明しよう。ランチア・デルタは、コンパクトなフルヴィア・ベルリーナの“精神的”後継車として1979年に発売されたが、フィアット色を色濃く受け継いだ産物であった。フィアット・リトモのプラットフォームをベースに、イタルデザインがスタイリングを手がけた。エンジンはリトモとほぼ共通で、アウレリオ・ランプレディが設計したシングルカム4気筒であったが、ウェバー製ツインチョークキャブレターとランチアが開発したインレットマニフォールドとエグゾーストを装備し、パワーと洗練性を高めていた。

スウェーデンではデルタをベースに「サーブ 600」として販売され、北欧市場で重要となる防錆(当時、ランチアの防錆対策は弱点として悪名高く、北欧から得た知見をもってしても完全には成功しなかった)のほか、暖房や換気、バンパーの高さまで開くテールゲートを可能にする縦型テールライトなどは、サーブによる協力によるものだった。そのほか、サーブは分割可倒式リアシートの設計にも協力している。

数年後、スウェーデンの技術陣たちはランチア・テーマ、サーブ 9000、アルファ164、フィアット・クロマを生み出した「タイプ4プロジェクト」で再び協力した。

デルタのスポーツ開発は、1983年のターボチャージャー付きHFに始まり、86年のトリノ・モーターショーで発表された2リッターモデルのHF4WDへと進化を遂げた。翌年、デルタは象徴的なブリスターフェンダーを備えた「HFインテグラーレ」として生まれ変わり、さらにターマックとグラベルを制覇するために「インテグラーレ16v」、最終のホモロゲーションモデルとなった「エヴォルツィオーネ」と姿を変えていった。組立作業はランチアのキバッソ工場の一部を引き継いだボディパネル・サプライヤー、マッジョーラに委託された。

ハイエナ誕生


ポール・クートはイタリアのスポーツカー好きなエンジニアの父のもと、一緒に手を汚しながらオランダで育った。1980年代、イタリアのクラシックカーを扱うビジネスを始めたクートは、アストンマーティンDB4GTザガートをレストアする際にアルミボディの修理に関する知見を求め、エリオとアンドレア・ザガートとの関係性を築いた。

なお、最近、インテグラーレをレストモッドした車がチラホラ登場している。特にマトゥーロは「オランダ」に本拠を置いていることで、ハイエナとの"縁"を感じさせてくれるが、同社のカーボンボディはインテグラーレのデザインを踏襲したに過ぎない。

「デルタHFインテグラーレにクーペモデルがあれば」との考えを持っていたクートに、エリオ・ザガートは自社デザイナーのマルコ・ペドラチーニが描いたコンパクトクーペの図面を見せた。1990年のことだ。

スケッチを目にしたクートは、インテグラーレのシャシーにそれを投影することを提案したという。もっとも、クート自身は片手で数えられるほどしか売れないと踏んでいたが、いざ1992年1月のブリュッセル・ショーでスタイリング・モデルを披露すると、14台もの注文が入った。そのうち10台は日本からのオーダーだったという。



ハイエナの力強いフロントデザインと機敏さをもたらす筋肉を彷彿とさせるリアデザインは、その名前の由来からインスピレーションを得たスケッチが進化したものである。

「後には引けなかった」とクートが回想したことが印象的であった。そして、翌年10月のパリ・サロンではハイエナのプロトタイプを発表した。

ザガートはインテグラーレのフロアパンとハードウェアを流用し、スチールフレームとアルミのボディパネルを造る計画を立てた。ランチアはこの車への“ランチア・バッジ”の装着を許可したとともに、ディーラーはこぞって販売することを希望した。話はトントン拍子に進んだのだが、実務は難航した。というのも、ランチアが部品供給を間に合わせることができず、1年の話し合いの末に頓挫しかけたのだ。そこでクートはオランダのランチア輸入業者であるラニムを通して、インテグラーレの完成車を購入することを考えた。完成車は、クートが所有するルッソ・サービス・オランダ・ビジネスで分解され、必要な部品をミラノのザガートに送り、新しいボディが架装された。



ザガートが手掛けたボディパネルは、スチールではなくアルミニウム合金が使用され、ドア、アウターシル、バンパーには複合素材が用いられた。これらの素材とシンプルなボディ(2ドア、トランク開口部なし)だけでなく、フランスのMOCが製造したカーボンファイバー製の内装のおかげで、“柔軟性”に富んだインテグラーレよりもボディ剛性が50%高まり、15%の軽量化も実現された。

完成車を購入、解体、組み立てと多大な労力を要したため、ハイエナは必然的に高価な車両になってしまった。当初、クートはシャシーを改造して600台を生産するという計画を立て、アルファロメオGTVと同等の価格を見込んでいた。しかし蓋を開けてみればイギリスにおけるハイエナは計画の2倍以上である7万4000ポンドで販売せざるをえず、ほぼフェラーリ348の領域に達してしまった。設計されてから時が経つハッチバックをベースにした4気筒クーペが、ザガートの血を引く、あるいはWRCチャンピオンカーがベースという、エキゾチックな要素を備えていたとしても、あまりに高価であった。

ラリーで活躍した4気筒ターボエンジンがベース。

クートは再び計画を精査したうえで75台のハイエナを世に送り出せると踏んでいたが、ハイエナ生産中にランチアがインテグラーレの生産を終了してしまった。よって1992年から95年までに合計24台が世に送り出されにすぎない。もっとも、筆者がクートと話したときには、2台のハイエナがフロントガラス(ザガート製アルファロメオES30“SZ”と同じ)の到着を待っていた。今も当時も品薄だったのだ。



・・・【後編】へ続く


編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom)
Words:Glen Waddington Photography:Barry Hayden

古賀貴司(自動車王国)

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