「日出る国」のスポーツカー|イギリス人はトヨタ2000GTをどう評価したか?

Paul Harmer

「希少でスタイリッシュ、なおかつ精巧に作り込まれたトヨタ2000GTは、日本の自動車産業界に新風を吹き込んだ」……
『Octane英国版』はトヨタ2000GTについてのレポートでこのように書き出した。果たして彼らは2000GTをどう評価しているのだろうか。



「イミテーションは、最上級の褒め言葉」


独創的な製品を生み出せず、コピー&ペーストをするしかなかったかつての日本の自動車産業界を、そう揶揄する向きが少なからずいたことは事実だろう。第二次世界大戦後、日本のメーカーが作る自動車は、トヨタ・コロナや日産ブルーバードなどのように、信頼性は高いけれど明確な個性に欠けるモデルが大多数を占めていた。 けれども、1960年代初頭になって徐々に海外進出を図るようになると、ヨーロッパやアメリカのメーカーがブランド・イメージを高める目的で特別なモデルを作っていることに気づき始める。メルセデスのガルウィングSL、シボレー・コルベット、ジャガーEタイプなどが、その好例である。

そして1965年、日本の自動車メーカーも彼らにならって“特別なモデル”を作り上げる。それが、トヨタ2000GTだった。

開発メンバーに選ばれたのは5名の精鋭。“280A”と名付けられたプロジェクトは、トヨタ主導でヤマハと共同開発することが決まる。プロジェクトリーダーはエンジニアの河野二郎で、デザインは野崎喩が担当。トヨタがすでに購入していたスポーツカーのなかでお手本とされたのは、Eタイプ、MGB、トライアンフTR2、ポルシェ911、そしてロータス・エランなどだった。これに先立ち、ヤマハは日産のためにスポーツカーを開発していたが、そのプロジェクトが頓挫したことを知ると、トヨタはヤマハのエンジニアに対し、2000GT開発へのグリーンライトを与えたのである。

モータースポーツ活動から多くのことを学んだ河野のチームは、ロータス・エランのバックボーン・シャシーや4輪独立懸架に強く共感し、デザイナーの野崎はジャガーEタイプの美しさに心酔していた。そして日本の技術者たちは、ここで自分たちの聡明さを証明することになる。すなわち、学びうるもののなかから最良の事例を選び出し、それらをひとつにまとめ上げることで、自分たちのアドバンテージを築き上げたのだ。そして、これはイミテーションというよりは「新たな創造」と呼ぶに相応しいものだった。コーリン・チャプマンのレーシングカーにインスパイアされたサスペンション、サー・ウィリアム・ライオンズの息を呑むようなスタイリング、そしてヤマハが手がけたコンパクトで美しいDOHC直列6気筒エンジンなどが、ここでひとつに組み合わされたのだ。

排気量2リッターの直列6気筒DOHCエンジンはヤマハ発動機の開発。

同じ時期、イギリスの大手自動車メーカーは、まったく別の方向に進んでいた。それは残念ながら時代の流れに逆行しており、リアサスペンションにはリジッド式を採用。エンジンには活発さのひとかけらもなく、ブレーキはドラム式とされ、車両の建て付けは目を覆いたくなるほどひどいものに成り下がっていった。なぜ、MGのエンジニアたちは、チャプマン式のシャシーやツインカム・エンジンを採り入れなかったのか?やがて、かつて名門だったBMCはBLと名前を改めると、30年間にわたって坂を転げ落ちるようにして衰退。MGBの栄光は、1990年にデビューしたマツダのMX-5によって引き継がれたのである。

「史上最高のヨーロッパ製スポーツカー」?


完成した2000GTをトヨタは1965年の東京モーターショーで公開。それは日本で誕生した「史上最高のヨーロッパ製スポーツカー」と呼んでもおかしくない作品だった。2000GTはしばしばジャガーEタイプと比較されるが、全長は1フィート(約30cm)近くも短く、全幅はおよそ6cm狭く、全高も同じく6cmほど低い1160mmに仕上げられていた。したがって、その外観は極めてコンパクトだが、ホンダ800と違ってコミカルなほど小さかったわけではない。

1967年の東京モーターショーではゴールドにペイントされた2000GTが展示された。かたわらに立つのはモデルのツィッギーで、彼女には後に1台がプレゼントされた。

その美しさがもっとも際立つのはサイドからの眺めで、ウィンドウスクリーンは強く傾斜し、ドアのラインは後に向けて小気味よく上昇。美しいクーペのルーフラインは緊張感を保ったままなだらかに下降し、その足下を機能美溢れるマグネシウム合金製ホイールが引き締めていた。“テクノロジー”という言葉が心に浮かぶのは、リトラクタブル式ヘッドライトやフェアリングに覆われたスポットライトを目の当たりにし、フロントフェンダー上のサイドポッドにバッテリーやエアクリーナーが収納されているのに気付いたときのことだ。ただし、多くのクラシックカーがそうであるように、正面から見た姿が魅力的とはいいがたく、ヘッドライトが格納されている際に浮かび上がるボディパネルのつなぎ目は形状がユーモラスで、165サイズのタイヤがやや貧弱に映るのはやむを得ないところだった。



もっとも、野崎喩に与えられたミッションは「2000GTをヨーロッパ車らしく見せること」にあったはずで、日本らしい緻密な物づくりが、コンパクトな造形や軽快な印象を際立たせていた。なるほど、テールライト周りのデザインはややけばけばしいし、2本出しのテールパイプはいささか威勢がよすぎる。また、フロントフェンダー上に取り付けられたオリジナルのリアビューミラーは恐ろしく華奢に見える(ただし機能的には驚くほど優れている)が、それらは引き締まったクーペ・スタイリングの日本的解釈だったのである。





この魅惑的なスポーツカーが、若林映子とともにショーン・コネリー主演の映画「007は二度死ぬ」に登場したことも、ファンにとっては永遠に忘れられない史実だろう。ボンドカーに抜擢された2000GTはロードスターに改装されたことで、6フィート2インチ(約188cm)の長身だったコネリーも難なく助手席に収まることができた。つまり、2000GTのデザインはただスタイリッシュなだけではなかったのだ。



そして1966年に開催された第3回日本グランプリで3位に入賞したのに続き、同年の鈴鹿1000kmでは優勝。そして67年の富士1000kmでも栄冠を勝ち取った。翌68年にはキャロル・シェルビーの手で2台の2000GTをSCCAプロダクションカー・レースにエントリー。1年だけの活動だったが、ここでも成功を収めている。ちなみに、シェルビーが走らせた2000GTのレーシングカーは、2022年のオークションに出品されて250万ドルで落札された。


・・・【後編】へ続く


編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI
Words:Robert Coucher Photography:Paul Harmer
取材協力:オートフィチーナ(www.autofficina.co.uk

大谷達也

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