マツダ・ロードスターと細く赤い糸で結ばれたイタリア車|O.S.C.A.1600GTSベルリネッタ・ザガート

写真:デレック槇島 Photography:Derek MAKISHIMA



私が、マツダがOSCAを所有していた事実を知ったのは、『スクランブルカー・マガジン』誌1981年10月号の誌面であった。だが、その存在は先輩達には周知の事実で、試乗したという話も聞いた。以来、私は機会あるごとにマツダの関係者に見せてほしい、話を聞きたいと懇願し続けていたが、ついに果たせなかった。暫くして、払い下げられたという情報を伝える電話を読者からいただき、ずいぶんと長電話になった記憶がある。

誌面に掲載された写真では、GTSの証であるプラスチック製のライトカバーが割れ、ダークレッドの塗装も一部剥がれた状態であった。車検を取得したことを示すステッカーが残っていた。それは歴史が刻まれた物だけが持つオーラを放ち、飽きずに写真を眺めながら、1960年代の初頭にこれを目にした技術者たちがどういう印象を得たか知りたいと思ったことを、昨日のように鮮明に覚えている。

それから長い年月が経ち、この稿を書いているころに"0091"は日本の地を離れていった。個人的には、これも日本の産業遺産のひとつあり、可能ならこの地に留まっていてほしいと考えているが、聞くところによれば、新しいオーナーはヒストリーを知り、その価値を充分に理解しているというから安心できそうだ。余談ながら、東洋工業のほかにも某社がOSCAの車両、もしくはエンジンを研究用に所有していたという。

OSCAの誕生
OSCA(Officine Specializzate Costruzione Automobile)は、イタリアのボローニャを本拠に置く、ごく小規模なレーシング/スポーツカー製造会社であった。活動していた期間は1947年から67年までと短く、また生産台数も少なかったが、誕生の経緯と際立つ個性によって、その名はエンスージアストの胸に深く刻みこまれている。

会社を興したのは、マセラティ社を創設したマセラティ兄弟であった。兄弟が自分たちの自動車生産会社、オフィッチーネ・アルフィエーリ・マセラティを創業したのは1926年のことだ。彼らは、なによりレースに勝つことにだけ集中し、金になる生産車生産には目もくれず(会社の規模を考えれば両立は無理であったろう)、純粋に性能を重視したレーシングカー生産に特化し、ワークスチームで走らせながら、この活躍に注目した裕福なアマチュアドライバーやプライヴェティアに販売していた。

多くの優れたドライバーを育て、会社の知名度は上がっていたものの、こうした経営方針では会社が成り立つわけはなく、しばしば倒産の危機に瀕している。マセラティ兄弟の確固たる信念と、彼らに心酔する職人達の情熱だけで会社が活動していたといっても過言ではないだろう。しかし、1937年、もはや立ちゆかなくなった会社は、立身出世の企業家であるキャバリエール・デル・ラヴォロ・アドルフォ・オルシによって買収された。ちなみに、買収までの10年間に生産されたマセラティはわずか120台程度にすぎなかった。

オルシがマセラティの買収に動いた意図は、彼のグループで生産される様々な工業製品を盛り立てるに相応しい、名門"マセラティ"のブランドネームと、そのスパークプラグ部門であったという。"ブランド"の価値を守り、さらに高めていく必要があることはオルシも承知しており、傘下に収めると、発祥の地であるボローニャからモデナの中心地近くへと会社を移転させ、ワークショップも大きく近代的なものに変貌させた。経営に腐心する必要がなくなったビンド、エットーレ、エルネストの三兄弟は技術開発に没頭し、結果的にマセラティ社に大きな成功をもたらすことになった。

それから10年後の1947年にテクニカル・アドバイザーとしての契約が満了すると、兄弟は故郷のボローニャに帰り、その年のうちに"O.S.C.A.-フラテッリ・マセラティ"を創設した。

大きな盤面のイエガー製回転計と速度計(ともにOSCAのロゴ入り)をドライバーの真正面に配置し、ナルディのウッドリム・ステアリングを備えるというイタリアンGTのセオリーに沿った意匠だ。オドメーターは5000kmを超えた程度だが、これが新車当時からの走行距離だ。

文:伊東和彦(Mobi-curators Labo) Words:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事