「未レストア」真の遺産であるフェラーリ・デイトナを走らせる

Photography:Winston Goodfellow

1960年代の終わりにはカスタム・コーチビルドのフェラーリはほとんど姿を消していた。しかしながら、このきわめてめずらしいデイトナは例外である。

1969年型フェラーリ・デイトナ・スペチアーレはいわば自動車史の交差点に位置する。このワンオフ・スペシャルが生まれたのは二つの大きな潮流がその勢いを失っていた頃で、結果的に歴史のターニングポイントを象徴することになった。

物語は1966年に遡る。そのアイディアが生まれたのはマラネロではなくトリノ、ピニンファリーナのデザイン部門で急速に頭角を現していた当時28歳のレオナルド・フィオラヴァンティが、裸のフェラーリ・シャシーに出くわした時だ。「それは330GTC/GTSだった」と彼は楽しそうに振り返る。「それを見てそれまでになかったアイディアを思いついたんだ」



ひらめきはたちまち白紙の上に形を取っていった。「機械的な土台の寸法や形に忠実に描きたかった。同時に空力には細心の注意を払った。最初の素描と、後でもっと詳しく描いたスケッチを見てセルジオ・ピニンファリーナは大喜びしたものだ」と彼は言う。

才気あふれる若きデザイナーは気づいていなかったが、彼のスケッチはこれ以上ないほどのタイミングで描かれたものだった。1966年の半ば、ほとんどの人はフェラーリの次のトップモデルはミドエンジンになるだろうと考えていた。なにしろフェラーリは1963年からミドシップカーで耐久レースを席巻していたのだ(63年にはル・マン史上初のミドエンジン車での勝利を果たしている)。

さらに、ピニンファリーナは既に1965年のル・マン24時間を制した250LMをデザインしており、1965年のパリ・サロンには市販型ミドシップ・フェラーリのデザイン・スタディとして最初のディーノ・プロトタイプを出品していた。しかし、その数カ月後、新興メーカーであるランボルギーニがジュネーヴ・ショーでミウラ・プロトタイプを発表し、自動車界を土台から激しく揺さぶった。当時、ランボルギーニのチーフエンジニアでミウラの生みの親、ジャンパオロ・ダラーラによれば、「あらゆる金持ちと我慢できない人たちが殺到した」という。

セルジオ・ピニンファリーナも手をこまねいていたわけではない。「ミドエンジン・モデルの開発については長いこと議論されていた」と振り返る。

「私自身は、ふたつの主張の間で悩んでいた。最高の性能を追求するのならミドエンジン・レイアウトは必須だと強く主張する人々もいたが、エンツォはその考え方に乗り気ではなかった。ユーザーが乗るには危険すぎるのではないかと心配していたからだ」

そんな激しい議論の最中に、ピニンファリーナはフィオラヴァンティのスケッチを提案した。エンツォはそのアイディアに興奮し、そのプロジェクトをさらに進めるように依頼したという。

「私たちの第一の目標は、たとえ不利な立場にあったとしてもミドシップカーのようなほっそりとした車をデザインすることだった。エグゾーストパイプがボディ下部を通っているために車高が高くならざるを得なかったが、ボディ全体を軽快にシャープに見せることを模索した」

このコンセプトはさらに2年間にわたって改良され、フェラーリとピニンファリーナは3種類のプロトタイプを製作した。最後のプロトタイプはいわゆる市販試作車であり、それが1968年のパリ・サロンに出品されたことでミドシップ・ブームは勢いを失った。
『 ロード&トラック』誌は、「すぐ横に展示されたピニンファリーナのディーノ・プロトタイプはそれに比べて古臭く見えた」と伝えている。また『モーター』の記事はもっと踏み込んでおり、デイトナを「ミウラ迎撃用の最新市販モデル」と名付けた。実際に市販されると『オートカー』は熱狂的に書き立てた。「この歴史的傑作の衝撃と興奮を言葉では伝えようがない。我々にとってこれは高性能車マーケットの頂点に聳える新しい基準である」と。

編集翻訳:高平 高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Winston Goodfellow

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