半世紀をポルシェ356と生きてきた男のストーリー

Delwyn Mallett



そして1969年に、私は彼から305ポンドで"当時物" のアルミ製ハードトップと一緒にスピードスターを購入した。私は大喜びで乗り回し、リビエラの太陽を求める旅にも出た。レイバンのサングラスとリネンはためくヘルメットできめ、アクセル全開で私は少年に戻った。

もちろんスピードスターは毎日の足となり、雨の日も雪の日も、たまの晴れた日も走らせた。憂鬱な英国の冬を何度か経験した後は、AFN社でたった4台しか売れなかった理由がよく分かった。悪化するスカットルシェイクや金属疲労の兆候をあえて無視して、私は避けられないことが起きるまで頑張った。

ついに錆びによって鋼板が危機的になり、マウント
を失ったシートは傾き始め、シートランナーが路面に接する状態にまで陥った。

2台目のスピードスターは、偶然、チズウィック(西
ロンドン)の裏道でみすぼらしい姿を晒しているのを見つけた。フランスのナンバープレートと左ハンドルに対する嫌悪感はなんとか堪え、300ポンドで私のものとなった。もともと1台目と2台目を解体して"にこいち" で3台目を造るつもりだったが、驚いたことに、2台目は錆びていなかった。この車は、初期にハリウッドの伝説的女優、グロリア・スワンソンがニースで使っていたため、走行距離が少なく、暑い日差しの中でシャシーは傷んでいなかった。

かし、その後のパリの駐車習慣によってエクステリアが傷み、みすぼらしくなっていたのだ。板金修理と再塗装し、赤いレザーでトリムを張り直すとゴージャスな車になった。それは今でも変わらない。

1台目のスピードスターはHSCC(ヒストリック・スポーツカー・クラブ)のレースにも出場した。1970年代初頭にはスプリットウィンドウの356には誰も見向きもせず、売却することはほぼ不可能だった。また、誰も古いポルシェを修理しようとはせず、輸入元のAFN社でさえ356の溶接修理に関わることを拒否した。とにかく複雑過ぎたのだ。ボディパネルも稀に手に入る程度となった。フロアパネルは入手不可だったが、私は工場が持っていた最後のフロントクリップを購入した。これはノーズ全体と両フロントフェンダーが溶接で一体化されたもので、巨大な箱に入って届けられた。

HSCCレースでは、その当時の(短期間のみだが)一般的なロード・スポーツのカテゴリーに入った。シルバーストーンとドニントンで2〜3シーズン走り回った後、私はこのレースのコツをつかんだと思い込み、ブランズ・ハッチではクリアーウェイズを抜ける際にスタンダードではないライン取りをした。そこで分かったのは、356のハンドリングについて今まで聞いてきたことがすべて本当だという事実だ。スローイン、ファストアウトでなければならない。



1960年代後半から70年代初頭にかけても、356はほとんどの普通の車よりもパフォーマンスが優れているか、引けを取らなかった。先頭を独走するのは簡単だったが、徐々に、否応なく他車の進歩に取って代わられることとなった。最近では、356に乗ったあなたが命懸けで追い越し車線に入っても、すぐに白いバンの男が迫ってくるだろう。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO( Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:東屋 彦丸 Translation: Hicomaru AZUMAYA  Words: Delwyn Mallett

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