グランドキャニオンをメルセデス・ベンツ 300SL ガルウィングで旅する

Photography:Patrick Ernzen

グランド・キャニオンへのツーリングは、伝説の名車、ガルウィングドアのメルセデス・ベンツ300SLのマジックを満喫できる最高の機会となった。もちろん本格的なレースではないが、とびきりのエピソードをご紹介しよう。

果敢。向こう見ず。いや、馬鹿げているとすらいえるだろうか。何十年も使われていなかった古いコンペティションカーを走らせようとするなど、臆病者には縁のない発想だ。しかし、時にはそのあまりにも強い魅力に抗えないこともある。まして、胸が奮い立つようなルートで努力の成果を発揮できるとなれば、なおさらだ。

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広大なアメリカ西部には、そんな道がいくつもある。広々とした空のもと、太古の昔から何百万年も続く地形のドラマとともに、曲がりくねったアスファルト路面がはるか遠くまで続く⋯。これからご紹介するのは、とある家族に所有されて「ガレージで眠っていた」車の物語である。この車と元オーナーのスピリットが現オーナーをインスパイアした経緯、そして、米国の南端部とはいえメキシコ風の印象も色濃い風景を走るラリーで、この車が名車の伝説をよみがえらせたさまを語っていこう。

"300 SL Foundation"が開催した第1回300SLクラシック・ラリーで、私は1955年メルセデス・ベンツ300SLを、オーナーであり友人でもあるドン・ローズとシェアした。ラリーのコースは米国アリゾナ州を横切る1066 マイル(約1720km)だ。長年にわたる300SLのエンスージアストである、クレイグ・マクラフリン、トム・ソーンヒル、ジョン・ウィリオットらが発案した。彼らが目指したのは、「この代表的な車が築き上げた文化的な伝統を祝し、メルセデス・ベンツのクオリティとスタイルを体現するイベント」を創り出すことであった。さらに300SLのオーナーたちに、壮大な風景に恵まれた公道を舞台に、愛車を走らせる機会を提供することだった。ラリーには46チームが参加し、そのうち私たちを含む17チームがガルウィングだった。

ガルウィングはなぜ特別なのだろうか。「スーパーカー」という言葉は濫用されすぎて価値が下がってしまった感すらあるが、ときには、言葉本来の意味が息吹を吹き返し、驚かされることがある。300SLガルウィングに少しでも乗れば、スーパーカーという言葉は、車高が低くミドエンジンで、とてつもなく速く走る車ばかりを指しているわけではないことがわかるだろう。



1950年代にスーパーカーという言葉が意味していたのは、正に"ガルウィングドア"であった。さらに付け加えれば、"コレクターズ・アイテム"の中でも長期にわたって優良な価値が約束されている車、つまり、右肩上がりに価値が上がっていく車のことだった。そうした車の実用性が周知されていたことも背景にあっただろう。オーナーの大半は所有車を長期間にわたって保持し、車を見せることよりも、運転することのほうに強く魅力を感じてきた。

300SLは、ハイエンドなコレクションカーにありがちな規範からは外れている。概して、崇拝を集めて切望されるようなクラシックカーは、生産台数がきわめて少なく、保存される台数はさらに絞られる。そうした車はきわめて扱いが難しく、快適さについても大きな犠牲を払わねばならない。まして、幻の品のように希少な純正品で構成されたパーツをちりばめたところで、路上を走行可能な状態を保つことなど至難の業だ。しかし、300SLは違う。

社内コードではW198と呼ばれた300SLは、1954年にニューヨーク市で発表された。市販化の功労者は、米国の輸入業者であるマックス・ホフマンだ。彼は1952年300SL(社内コードW194)レーシング・クーペのロードバージョンが生産化できれば米国の富裕層に苦もなく販売してみせると断言し、メルセデス・ベンツの経営陣を説得したという。彼のビジョンは確かだった。実際に、1954年から1963年までの生産車のうち、クーペモデルは1400台、ロードスターモデルは1858 台が販売されるという成功作になった。1950年代のハイパフォーマンス・スポーツカーの水準から見て、300SLは強力なラインナップだった。同時期に生産されたフェラーリのロードカーに比べても、その人気は明らかだった。

最終生産年にあたる1963年ロードスター・タイプではディーラー売り上げが一時期衰えたものの、それでも300SLは常にどこか特別なモデルであり続けた。300SLは決して、ジャンクヤード送りになるような車ではない。路肩に放置されたり、にきび顔のティーンエイジャーに譲り渡されて乗りつぶされたり、そうした不幸な末路からはほど遠い、確固としたイメージが確立された車だった。

1952年のW194の姿は、メルセデス・ベンツがモータースポーツ界への復活を遂げた先鋒として、今でも人々の目に焼き付いている。第二次世界大戦の終戦からわずか7年後、そして、戦前最後に「シルバーアロー」が国際モータースポーツ界で他を圧倒してから13年後のことだった。特徴的なガルウィングクーペは、6月に開催されたル・マン24時間レースと11月に開催されたカレラ・パナメリカーナ・メヒコの両レースで1位と2位を独占し、メルセデスの復活を強く印象づけた。

300SLガルウィングはロードカーであるものの、ホフマンはオーナー達に週末にはレーストラックに向かうよう促し、実際に多くのオーナー達が実践した。こうしてプライベートドライバーたちが300SLでレースに参加するようになるまでは、高いパフォーマンスと先進技術を誇るこの車をサーキットで操る人は皆無だったという。チューブフレームのシャシー、気筒内直噴燃料噴射装置、全体に凝ったメカニズム、そして高い動力性能を引き出すことができる、軽い馬力当たり重量などを特徴としたガルウィングは、才能豊かなドライバーたちの手に掛かれば、強力な武器になり得ることを証明されたのだった。

300SLの高いパフォーマンスには、今日でも驚かされるばかりだ。生産されてからの年数にも関わらず、昨今の交通状況でも、ほぼ手加減することなく運転することができる。21世紀に入って20年近く経つ現在でも、走る、曲がる、止まるの三要素はすべて意のままだ。ともすれば、20世紀半ばに創られた車だということを忘れてしまいそうになる。

戦後に名車を収集し始めた世代、さらにその次の世代も亡くなりつつある現在、私たちの趣味の将来については多くの議論がある。デジタルの世界で育った世代は、まったくのアナログな分野である自動車に多少なりとも興味を抱くものなのだろうか。ミレニアムからも随分と年数を重ねた現在において、われらが300SLのオーナーであるドン・ローズは、その興味深いケース・スタディの一例といえよう。

ドン・ローズは、2006年から2017年までRMサザビーズで専門家として活躍していたので、彼の名声をご存知の方もいるかもしれない。今はその職を引退し、愛車の数々を愉しむ時間が増えているという。中でも一番のお気に入りは300SLだ。

マイクロソフト、アップル、グーグル、アマゾンなどに勤めてでもいないかぎり、大半の人々はデジタル革命に順応す
るステップを踏んだことだろう。ドン・ローズもそのひとりだ。彼が最初に選んだ仕事は音楽だった。関わり方は異なるものの、これは彼と私の共通点でもある。1983年、私はメトロポリタン・オペラで歌っていた。一方ドンは、レコード店のオーナーを経てニューウェーブ系のバンド・レーベルのオーナーとなり、1983年当時には数人の友人とともにライコディスク社を立ち上げていた。世界初の、CDのみをリリースする音楽プロダクション会社だ。

音楽界におけるデジタル革命もまだ日が浅かった当時、ドンが商機を見出したのは、大手の音楽会社が見逃しているような分野だった。リリース済レコードの豊富なカタログを掘り起こして、CDとして再リリースしたのだ。ライコディスク社の選択は波に乗り、業界のリーダー企業にまで成長を遂げた。

ドンは長年にわたり300SLに憧れを抱いていたものの、
入手品リストの中での優先順位はさほど高くなかった。では、彼はどのようないきさつで、こんなに特別な成り行きに至ったのだろうか。その理由は、この車を発見できた喜びと、この車にまつわる心惹かれる物語にたどることができるだろう。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. ) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:フルパッケージ Translation:Full Package Words:Donald Osborne

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