2019年の出来事振り返り│VWグループの元最高権力者 その生涯に幕を閉じる

Porsche AG


 
ピエヒは『タイムズ』紙のインタビューで、「祖父より大きな会社を率いることが常に私の目標だった」と語っている。その目標は、はるかに越える形で達成した。だが、VWは大きな不祥事で揺らぎ、その原因は恐怖で支配するピエヒの経営スタイルにあったと考える者も多い。ピエヒは2015年、かつての右腕だったマルティン・ヴィンターコルンとの権力闘争に敗れ、会長職を追われる形でVWを去った。
 
あるジャーナリストから自身最大の業績を聞かれると、ピエヒは躊躇なく「917だ」と答えた。反論する者はまずいないだろう。とはいえ、ピエヒが最初に携わった仕事は、ポルシェを長年支えたフラット4を引き継ぐ6気筒エンジン、901の開発だった。
 
初のビッグプロジェクトは1965年の906だ。先行の904を生み出したのは、デザイン部門を率いていた従兄弟の"ブッツィ"・ポルシェだった。1966年、ピエヒは次世代のレーシングカーを開発する実験部門を任される。やがて、ポルシェの広報とレース部門を長年率いてきた"レーシング・バロン" ことフシュケ・フォン・ハンシュタインの地位を奪い、すべてのレース活動の責任者となった。
 
906と、917に至るまでの後継マシンは、すべてチューブラーシャシーにグラスファイバー製ボディを架装する。906には2ℓの901エンジンをレース仕様にして使い、後継には水平対向8気筒エンジンを開発して搭載した。1968年、FIAは5ℓのグループ4カテゴリーの参戦条件として、1年間に最低25台の製造が必要とした。ピエヒは自身の将来を賭けて、4.5ℓのスポーツレーシングカー25台の設計、製造に全力を注ぎ込む。


 
作業は1968年7月に始まり、翌年4月21日には、フラット12を搭載した25台のレーシングカーがミリ単位の正確さで完成。ファクトリーの庭に並んでFIAの査察を受け、世界のメディアに公開された。917は、長らく待ち望まれていたル・マン総合優勝を1970年にポルシェにもたらす。ピエヒにとって感慨深いことに、優勝したのは母ルイーゼが経営するポルシェ・ザルツブルクのチームだった。917によって、ポルシェのモータースポーツ界での地位は不動のものとなった。
 
20年を過ごしたアウディでは、技術革新とラリーでの大成功によって、ブランドイメージを一新した。ピエヒにとってアウディ時代の917といえるのがアウディ・クワトロだ。クワトロは1983、84年に世界ラリー選手権を制覇した。
 
ピエヒは1993年にVWグループの会長に就任すると、その絶対的権力で、コストのかさむ派手なプロジェクトを押し進めた。W型12気筒エンジンのVWフェートンや、採算の合わないブガッティ・ヴェイロンがその例だ。ヴェイロンに、出力1000hp、最高速400km/hという条件を付けたのもピエヒだった。W16エンジンの採用は、祖父が生み出したアウトウニオン・グランプリカーのV16と呼応する。それこそがピエヒの動機だったのかもしれない。

Words:Delwyn Mallett Photography:Alamy and Porsche 編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. ) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA

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