「誰もが気軽に楽しめるランボルギーニ」を作るため誕生した一台とは?

Photography:Max Serra/Lamborghini


 
ダッラーラの回想によると、「ミウラが大成功を収めていたから、別のモデルで生産台数を増やすためには、できるだけシンプルな手法を取らなければならなかったんだ。だからまずは12気筒エンジンを半分に切ってマルツァルに積んでみたんだよ。あの12気筒エンジンの半分で果たして役に立つものかどうかを見極める、それは大胆かつ金のかからない方法だったからね。もし上手くいけそうなら、開発も生産もずっと楽になるはずだった。共通のパーツが沢山あったわけだから。でも、実際にはだめだった。非力すぎたんだ」
 
ボブ・ウォーレスもマルツァルをテストした結果、こう断言している。「いくつか気になる点はあるけれど、それは開発にもう少し金をかければなんとかなるだろう。それよりも根本的に問題だと思われるのは、そもそもこのエンジンがランボルギーニらしくないということだ。パワーが圧倒的に足りていない」
 
1969年、すでにランボルギーニの開発責任者となっていたパオロ・スタンツァーニはまったく新しいモデルの開発に取り掛かることを決心した。新開発のV8エンジンを積む、そう、後のウラッコだ。



「ウラッコは私が開発に関わったモデルの中で最も革新的な車だったよ」と、後にスタンツァーニは筆者(マッシモ・デルボ)にそう語っている。ミウラやエスパーダ、カウンタックといった名車を差し置いての高い評価が興味深いところだろう。「すべてが斬新だったんだ。ひとたび会社がその新たなプロジェクト、V8エンジンをリアミッドに横置きした4シータークーぺというコンセプトを承認すると、まったく白紙の状態から設計を始めなければならなかったよ。もちろん、スタイリングはマルチェッロ・ガンディーニに任せた。こんなユニークなプロジェクトを任せられる人材など他には見当たらなかったからね。ガンディーニは人間的にも素晴らしい男だったし、もちろん才能溢れるデザイナーで、なにより彼はエンジニアリングにも通じていたんだ。こちらから特に指摘しておかなくても、ここには冷却用の工夫が必要だろ?、なんていう具合にね」 

ガンディーニからの第一案はベルトーネのショーカー、アルファロメオ・カラーボ(1968年)から多くのヒントを得たスタイル、第二案は数年後に登場したフェラーリ308GT4と酷似したデザインで、いずれも承認されなかった。ランボルギーニが最終的に承諾したのは第三の案で、これがわずかにモディファイされ、ウラッコとして生産にこぎつけたのだった。


一方スタンツァー二は・・・次回へ続く

編集翻訳:西川 淳 Transcreation:Jun NISHIKAWA Words:Massimo Delbò Photography:Max Serra/Lamborghini

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