瀧さんの“カレラ6”、ポルシェ906-120がアメリカのオークションに登場

Bonhams

日本のモータースポーツ界にとって重要なポルシェ、“瀧さんのカレラ6”が今夏、ボナムスの「ザ・クエイル・オークション」に掛けられる。しばらく前に海外に渡っていったが、日本のファンが見慣れた姿のまま健在であることに安堵し、帰ってきてほしいと願うファンは少なくないだろう。なぜこのカレラ6が重要な存在なのかを話しておきたい。



ポルシェは日本のモータースポーツを盛り上げた存在だった。1963年の第1回日本GPに出場した356カレラ2以降、64年にやってきた904GTSなど、数多くのポルシェがレースに出場してきたが、66年第3回日本グランプリ出場のために飛来した906(別名カレラ6)、シャシーナンバー906-120ほど、長きにわたって数多くの名勝負を繰り広げたマシンはないだろう。

瀧進太郎(たき しんたろう)が第3回日本グランプリでステアリングを握って以来、瀧と906は同義語のような存在となった。若きジェントルマン・ドライバーの瀧は、906を入手したことがひとつの転機となって、モータースポーツをビジネスとして確立させようと奔走し、TRO(タキ・レーシング・オーガニゼーション)を設立している。

TROを引いた瀧と906の存在なくしては、日本のレース界、ドライバー、レーシングマシーンの発展の歩みは、1960年代以降に急加速をしなかっただろう。

瀧進太郎は1937年10月19日に、名古屋繊維総合商社「瀧定」の6代目として誕生した。大学卒業後、東京・三軒茶屋のスーパーマーケットに就職すると、25歳のときにこの店舗を譲り受けてオーナー経営者となった。モータースポーツに魅了されたのは、この頃からで、1964年にはロータス・エランで、65年にはレーシング・エランに乗り換え、鈴鹿や船橋サーキットで活躍を見せた。次なるステップとして瀧は、1966年の日本GPに向けてポルシェ総代理店だった三和自動車から、最新のレーシングマシン、906を購入した。三和が雑誌広告に掲げた価格は1100万円(911Sの2倍強)と高価であったが、その高い戦闘力は世界的にも折り紙つきであった。

いっぽう、1964年の日本GPでは、レース直前に空路運ばれてきた904GTSに苦杯を舐めさせられて敗退したプリンスは、新開発したR380を4台持ち込むという物量作戦を敷いて日本GPに臨もうとしていた矢先であり、ポルシェ906の出現に茫然としたといわれる。

瀧はといえば、「オイルと燃料さえ入れてやれば、イグニッションキーを捻るだけで、空冷水平対向6気筒ユニットは回り始めた⋯」、また「(カレラ6は)意外なほど乗りやすかった。慣らし(運転)は、とにかく時間がなくて第三京浜でやったほど⋯」と、906との出会いを記者に語っており、その完成度の高さに自信を持ってレースに挑んだことが想像できる。

そして臨んだFISCO(当時、富士スピードウェイはそう呼んで親しまれた)での日本GP。予選は豪雨に祟られたが、決勝日の5月3日は快晴となった。6kmコースを60周する360kmでのレースでは途中1回の給油が必要であった。結果的に、ピットインでの給油作業の所要時間が勝敗を分け、瀧は勝利から見放されることになる。

プリンス・チームは完璧なチームプレーを敷き、砂子のR380がトップに立つと、生沢のR380が瀧の906を完璧にブロックする作戦を実行。そして最終コーナーで瀧は906がタイアバーストに見舞われ、クラッシュしてレースを終えた。しかし、観客たちの多くは、単身でワークスのチームプレーと渡り合った瀧に声援を送り、彼こそがこのレースでのヒーローだと感じた。

瀧は1966年の第13回マカオGPにクラッシュの傷が癒えたばかりの906-120で遠征し、マシンの到着が遅れて練習不足ながら、3位入賞を果たしている。同年には鈴鹿と富士で2勝を挙げている。

1967年日本GPもR380対カレラ6の戦いとなった。906は、瀧に加えて、新しくユーザーとなった酒井正(906-149)、そして三和から出場の生沢徹(906-145)の3台態勢となった。レースでは生沢が優勝して、瀧は5位に入った。いっぽう生沢と激しく首位争いを演じていた酒井は、46周目の30゜バンクでコントロールを失ってガードレールを突き破るという激しいクラッシュに見舞われた。激しい事故を目の当たりにした現地はもとよりTV中継を見ていた観客たちは、最悪の事態も予想せずにはいられなかったが、酒井は軽傷を負っただけで大破した906からの生還を果たした。このアクシデントは906の高い安全性能を証明することになり、日本のポルシェ神話に新たな証言が加えられることになった。また、エンジンほかパーツは瀧の906のスペアパーツとして活用され、これが後述するように“120”が長く現役に留まる要因になった。

瀧が1967年にTROを設立すると、906はしばらくTROで使われたのち、69年にチュードルウォッチ・レーシングチームが入手して、高い信頼性を武器に優勝を含めた好成績を刻んでいった。1969年には津々見友彦/米山二郎が鈴鹿1000kmで優勝を果たしたが、67年鈴鹿1000kmでも瀧進太郎/田中健二郎組で勝っており、906-120にとっては同レースでの2勝目となった。

1970年7月12日、筑波サーキットでの全日本ドライバー選手権第4戦に波嵯栄菩珷のドライブで出場したときの906-120。この時はリタイアに終わった。(写真:日産自動車)

1970年になると、アマチュアドライバーの波嵯栄菩珷(ボブ・ハサウェー)やピーター・ベラミらが906で数多くのレースに出場した。予選では最速ながら、優勝からは遠ざかり、完走率が低下するようになった1973年4月、厚保サーキットで開催された西日本オールスターを終えると、P.ベラミの手で906-120は海外に売却された。オークション・カタログによれば、1974年のマカオGPで4位に入って以降、レースから去ったという。

だが、906-120は生き残り、1990年代に入ってから日本のポルシェ愛好家が入手すると、シュトゥットガルトのポルシェでフルレストアが実施され、現代に至っている。





1967年日本GPウィニングカー(906-145)も、1970年代に入ってからもアマチュアドライバーの良きパートナーとなって、実に1977年の富士1000kmまで現役でレースを走り続けていた。

こうした長寿にわたって906が現役であった例は世界的にも希有ではなかろうか。とりわけ1966年から74年までに出場した50戦で14勝を果たした906-120は、日本の貴重なレース遺産なのである。


文:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Words: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)
写真:ボナムス、日産自動車 Photography: Bonhams, Nissan

オクタン日本版編集部

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