「モデナの最強兵器」マセラティ450Sの波乱に満ちた生涯【後編】

Nick Lish

この記事は「油断したら噛みつかれるのさ」マセラティ450Sはモデナの最強兵器!【前編】の続きです。


欧州のレースでは不運に泣く


このときの450Sはまだ開発途中の“雑種”で、モディファイした350Sのシャシーに300Sのボディを架装し、ボンネットに仮のバルジを装着して新エンジンのスペースを確保していた。このテストカーは、テスト用を表す“T”の文字をレースナンバーの代わりに付け、フリー走行だけ出走した。そのパフォーマンスには、ファンジオをはじめ、ドライバー全員が舌を巻いた。ただし、ブレーキがオーバーヒートしてしまったため、決勝で使うことはできなかった。また、ボンネットバルジが邪魔をして、キャブレターにきちんと空気が供給されなかった。

次は専用のシャシーが造られた。ディスクブレーキも検討されたが、すぐに大径のフィン付きドラムの採用が決まった。これはリムの内部に収まらないほど巨大だった。ボディは、300Sをウェイトリフティングで鍛え上げたような外観となった。レースデビューは1957年1月のブエノスアイレスで、地元のヒーローであるファンジオがモスと組んだ。450Sは、息切れするライバルを完全に打ちのめして、はるか彼方へと走り去った。しかしクラッチが壊れ、その状態で変速を繰り返したことによる負荷がたたって、リタイアに終わった。

450Sのレースキャリアには、ポールポジションやリードラップ、最速ラップが散りばめられているものの、たびたびメカニカルトラブルに悩まされた。繰り返すハーフシャフトのトラブルは不運が原因とはいえないが、カラカスでのシーズン最終戦に関しては、レース史上これほどの不運に見舞われたチームもないだろう。450Sは3台出走した。2台はワークスカーで、1台はテンプル・ビュエルがエントリーし、マステン・グレゴリーとデイル・ダンカンがドライブした。ファクトリーは350Sと300Sも持ち込んでいた。

モスはベーラからポールポジションを奪ったが、ル・マン式スタートで450Sの始動に手間取った。300Sのトニー・ブルックスも同様だった。2周目、神がかったスタートを決めてリードを奪ったグレゴリーが、砂袋をかすって450Sを横転させた。命拾いしたのは、新たに取り付けたロールバーのおかげだった。いっぽうモスは、コースを逸れたACブリストルに高速でぶつけられ、徒歩でピットに戻る羽目になった。残ったベーラの450Sは、ピットインしたときに引火して、ベーラと、消火器を手に駆けつけたチーフメカニックのベルトッキが炎に包まれた。そこで、ベーラに代わってモスが運転席に座った。ところが、そこだけまだ鎮火していないことにチームも消火マーシャルも気づかず、送り出してしまった。

モスは数分でピットに戻ってくると、シートから飛び出した。ズボンは焦げ、火傷を負って、続行は不可能だった。これをハリー・シェルが引き継いだが、高速コーナーでジョー・ボニエの300Sを周回遅れにしたときに、300Sがパンクして450Sに突っ込み、2台ともクラッシュした。450Sは炎上して修復不能となり、それと共にマセラティのタイトル獲得の望みも灰燼に帰したのである。この災厄を最後に、赤字に陥っていたマセラティは、耐久レースだけでなくF1からも撤退を決め、以降はプライベートチームに供給するだけとなった。最大排気量が3リッターに引き下げられたため、ヨーロッパでは450Sの将来も絶たれた。

アメリカでの“4504”


マセラティは、450Sに残された活躍の場をアメリカに見いだした。このシャシーナンバー4504も同様だ。これを新車でオーダーしたジェントルマンレーサーのジム・キンバリーは、クリネックスティシューのキンバリー・クラーク社の跡継ぎだった。キンバリーは特殊な要求をマセラティに送った。詳細なシートのサイズと、スロットルペダルの中央配置、頭部保護用の鋼管をシャシーに溶接してヘッドレストを付けることだ。これらを要望どおり装備して、数週間後の1957年5月に組立が完了した。

キンバリーはエルクハートレイクにある夏の別荘で車を受け取った。近隣には完成したばかりのロードアメリカがあり、6月のスプリントでレースデビューを飾った。数週間後のロードアメリカ500には、ジャック・マカフィーと組んでエントリーしたが、フリー走行でトランスアクスルに問題が出たため、決勝スタートはならなかった。続いて、キューバGP出走のため450Sをハバナに送った。しかし、キンバリーはサーキットが危険すぎると感じ、フリー走行で何度も恐怖を味わったため、二度と450Sに近づこうとしなかった。フリー走行でこれを使用したモーリス・トランティニャンも、何かがおかしいと感じた。こうして、キンバリーと4504の蜜月はあっけなく終わりを迎えた。ドライビングポジションは事細かに調整できても、450Sの獰猛さを御することはできなかったのである。

最初のオーナーであるジム・キンバリーと4504。ハバナで開催された1958年キューバ GPでの 1枚で、キンバリーが4504で出走した最後のレースとなった。

オーナーが変わったあと、この4504をスターリング・モスがニューヨーク州のブリッジハンプトンでテストし、チーム監督のアルフレド・モモも立ち会った。徹底的にセットアップを詰めて、1958年12月のバハマ・スピードウィークに参戦すると、ナッソー・メモリアルトロフィーでエディ・クロフォードが総合2位フィニッシュを飾った。

使われなくなったレーシングカーの例に漏れず、ここから4504にも苦難が待っていた。エンジンはボートを造るために取り外され(このプロジェクトは実を結ばなかった)、4504は行方不明になるかスクラップにされてもおかしくなかった。ここで救世主となったのが、マセラティの歴史探偵で著書もあるルイジ・マンチーニで、おかげで4504は元のエンジンを取り戻した。そして1986年にピサのルイジ・マンチーニのものとなり、故郷のイタリアへ戻った。

エンジンはリビルドされ、カロッツェリア・ガルーティでレストアが始まったが、完成を見ないまま、1997年にアメリカのコネチカット州にあるドラゴン・クラシックモーターカーズへ運ばれた。これをヒューストンに住むコレクターのアルフレド・ブレナーが入手して組立を完了し、1999年に現オーナーが譲り受けた。それまでのレストアはコンクールを念頭に行われていたが、新たな目標はレース出走だった。そうなると優先順位がまったく違ってくる。4504はボディワークのレストアのため、イリノイ州のマケイブ・オートレストレーションズに送られて、新オーナーのエンジニアであるダイク・リッジリーが作業を指揮した。

リッジリーは次のように説明する。「スキップ・マケイブと私は、過去の写真を注意深く観察して、ボディワークのノーズとリアが正しくないことを突きとめました。“新しく”レストアされたフロントとリアは修正しましたが、ボディワークの中央部分はオリジナルで正しいと断定できました。そして、イタリアの伝統的なボディワークの技法を使って、ファントゥッツィ製ボディの元の形状を正確に復元したのです」



駆動系は、インディアナ州クラウンポイントのスコット・テイラーが面倒を見た。エンジンは完全なリビルドが必要で、内部パーツの摩耗は限定的だったが、ウォーターポンプのインペラーなど腐食していた部分は、特注の交換パーツを機械加工で作り上げた。450Sはどれもヘアピン型バルブスプリングを使っていたが、4504はいずれかの時点でコイルスプリングにコンバートされており、これはそのまま活用した。

マセラティのエンジニアは、非対称のバルブタイミングを採用していた。カムローブを非対称にするのではなく、ユニークなローラー式フィンガーフォロワーによってこれを実現したのである。このフィンガーフォロワーは摩耗も低減させる。ロッカーアームの設計によって、バルブが開くときと閉じるときで開度が異なることを、リッジリーは偶然発見した。

「クランクシャフトにもショックを受けました。両端のバランスが100g以上も違っていたのです。この時代のマセラティのV8は振動が大きいことで知られていましたが、その理由が分かりました。これを受けて、ファクトリーの歴史家であるコッツァ氏は、マセラティのバランシングマシンには何年間も狂いがあり、それが判明したのは新しい機械を購入した1960年代中頃だった、と記録に残しています」

新たに製作したクランクシャフトは、大幅に強度が増して軽量化された。コンロッドも同様だ。新しいピストンによって、圧縮比もわずかに上がった。キャブレターにはより大きなチョークバルブを取り付け、マグネトーとディストリビューターの進角カーブを同期させた結果、はるかにスムーズで、いっそうパワフルなエンジンとなった。「エンジンをベンチテストにかけると、非常に滑らかに回るので目を見張りました。高回転域で猛烈なパワーを発揮したのです。クランクシャフトとコンロッドに関する作業が報われました。これほどスムーズに7000rpm近くまで回る大型のV8は、滅多に見たことがありません」

4.5リッターの 4カムV8は、足枷を解かれて400bhp超を発生する。

スコット・テイラーは、クロスウェイト&ガーディナー社が提供する新しいギアを使ってトランスアクスルをリビルドし、ショックアブゾーバーの試験器でダンパーセッティングを完璧なものとした。

リッジリーはこう続ける。「当初、オーナーは車が非常に不快な感触だと話していました。私たちは、コーナーウエイト調整を行い、リアのスプリングマウントを調整式に変更した上で、前後バランスをさらに向上させるため、リア用に13mmのアンチロールバーを製作しました。感触は大幅に改善して、“最低”から単に“難しい”状態になりました」 現在、オリジナルのエンジンを搭載する450Sは、4504を含めて3台のみだ。10台製造され、プロトタイプが1台あるうち、9台が何らかの形で現存する。

あの波乱に満ちた1957年シーズンを振り返ると、ハーフシャフトの問題さえ解決していたら、マセラティの勝利数は増え、ポイントを積み上げてタイトルを獲得できた可能性がある。そうすれば、マセラティにはまったく違う未来が待っていたはずだ。破産寸前に追い込まれることもなかっただろう。最後の追い打ちは、アルゼンチンのペロン政権から発注された大量の工作機械が代金未払いとなったことだ。ファンジオが懸命に仲介を試みたが無駄だった。マセラティは生き残っただけで幸運だったといえる。



その絶頂期、モデナの最強兵器は何者も触れられない高みに到達した。だが、翼がバラバラになったイカロスのように、それは束の間の飛翔だった。


1957年マセラティ450S
エンジン:4477cc、90゜V型 8気筒、DOHC、ウェバー製 45IDMキャブレター×4基
最高出力:400bhp超/ 7000rpm 最大トルク:47.5kgm/ 4600rpm
変速機:5段 MTトランスアクスル、後輪駆動
ステアリング:ボールナット
サスペンション(前):不等長ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、テレスコピック・ダンパー、アンチロールバー
サスペンション(後):ド・ディオンアクスル、横置きリーフスプリング、テレスコピック・ダンパー、アンチロールバー
ブレーキ:4輪ドラム 車重:1052 kg 最高速度:291km/h


編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下恵
Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) Translation: Megumi KINOSHITA
Words: Marc Sonnery Photography: Nick Lish
取材協力:Dyke Ridgley, Ermanno Cozza, Fabio Collina, Willem Oosthoek, Jean-Francois Blachette, Alan W, Apex Motor Club.

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.)

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