名車秘話|メルセデス540K スペシャル ロードスターが「スペシャル」と呼ぶにふさわしい理由

Photography:Mathieu Heurtault




フォン・クリーガー男爵夫人と二人の子供たち

男爵夫人は、1920年代に裕福な家庭に育ち、後にベンノ・ユリウス・レオポルド・フォン・クリーガー男爵と結婚。そして離婚後、パリの邸宅で息子と娘と共に暮らしていた。同じころ、男爵夫人の23歳の娘、ギゼラ・ジョセフィンはブリュッセルでクーペボディの540Kを購入した。社交界の華であったギゼラは、しばしばマレーネ・ディートリッヒやグレタ・ガルボと並び称されたという美女であり、また多くの男性の心を惑わしていた。

ギゼラ・ジョセフィン
リゾートで寛ぐギゼラ・ジョセフィン。プロイセンの貴族フォン・クリーガー男爵の令嬢として生まれた。離婚した母とともにパリに移り住んだギゼラは、名だたる女優とも比較されるほどの美貌から社交界の華であった。ソサエティマガジンが選出するベストドレッサー賞の世界トップ10の7位にランクインしたことさえあった。また英国でもギゼラの知名度は高く、1937年にはジョージ6世の戴冠式に招待されたほどだった。たくさんの男たちが高価な宝石を捧げて彼女の心を射止めようとしたが、すべて徒労に終わり、生涯を独身で過ごした。

フォン・クリーガー家のパリでの優雅な生活には、フランスがドイツに宣戦布告したことでピリオドが打たれた。敵国のドイツ国民であった一家は、ローヌ・アルプ州のヴァル・レ・バンに抑留される手はずだった。だが、男爵夫人とギゼラは懇願して中立的な立場にあるモナコで住むことを許され、モンテカルロにあるホテル・ド・パリに移り住み、ヘニングはドイツ空軍に入隊した。

1941年、ドイツ帝国政府は男爵夫人たちに祖国へ戻るよう命じたが、それを嫌った二人は540Kクーペでスイスへと向かい、逃避行の足となったメルセデスをこの地で売却した。弟のヘニングが所有していたスペシャルロードスターもスイスに回送され、家族の足となった。だが、戦争での心労が重なったのか、ギゼラは間もなく心の病に取り憑かれた。終戦を迎えると、ギゼラは安住の地としてフランスへの帰国を望んだが、ドイツから解放されたばかりのフランスでドイツ人が歓迎されるわけはなく、その希望は叶えられることはなかった。慰みはヘニングが無事帰還したことであったが、それにもかかわらずギゼラの鬱病はひどくなるばかりだった。

1949年、一家はギゼラの快復を願って転地を試みることにし、3月23日、クイーンメリー号で540Kを携えてニューヨークに向かい、マンハッタンに移住し、540Kは再び家族の足として仕えた。

1951年3月に一家はいったんヨーロッパへ戻ったが、男爵夫人のジョセフィンが同年12月に他界するとギゼラとヘニングの姉弟は再びアメリカへと渡り、グリニッジのスティームボート・ロードに身を落ち着かせた。ギゼラは“国籍および身分に関する宣誓供述書”を提出し、彼女がナチス一派でないことが証明されると、アメリカ合衆国国務省はギゼラにアメリカの市民権を与えた。

倉庫のなかで眠る540K

だが、姉弟の安住はそう長くは続かなかった。1958年に病がヘニングを襲い、治療のために一家はスイスへ戻ることになった。二人が留守の間、スペシャルロードスターはグリニッジのホームステッド・インが所有する倉庫のなかで主人を待つことになった。だが、ヘニングが翌年に他界すると、最愛の弟を失ったギゼラはそのままスイスに留まることを選んだ。

律儀なことに、ギゼラは乗らぬはずのスペシャルロードスターへの保険はかけ続けていた。保険会社から彼女に宛てた1959年6月付けの手紙が残っているが、そこには「減価償却に対処し、そして市場価値により一致するよう」1年間の保険料を9.86ドルから8.70ドルに減額すること、そして補償金額を1500ドルに引き下げる旨が記載されている。

ギゼラはまた540Kの保管料も支払い続けていた。540Kが倉庫の中で眠り初めてから約40年を経た1989年、ヴィンティッジカーの価値が急騰したことから、ホームステッド・インの管理人の息子がギデラのもとを訪れ、メルセデスの購入を試みた。だがアパートのベルを鳴らしても返事は戻ってこなかった。家主ともにドアを開けると、彼らはそこでギゼラの遺体を発見した。

ギゼラは遺言を残すことなくこの世を去ったため、遺産の清算には長い時間が必要だった。荒れ果てた部屋の中から見つかった宝石の数々は、後にサザビーズで競売にかけられ、32万ドルで落札された。だが、メルセデスの所有権は法廷に委ねられ、ギゼラの遺産管理人に権利を認められたのは1994年のことだった。その後、ドイツ人コレクターが購入したものの、2年後にレストアされぬまま、フロリダのアメリアアイランド・コンクール・デレガンスに出展された後、著名なアメリカ人のコレクターによって買いとられた。フォン・クリーガー家の540Kの新しいオーナーはこう語っている。

「私がそのクルマを買った時、黒い塗装がところどころ大きくはがれていたものの、驚くほどにオリジナルな状態でした。灰皿の中には、ギゼラの口紅がついたタバコの吸い殻が入っていたし、彼女の白い手袋がフロントシートの下から見つかったほどですから」

スペシャルロードスターのレストアは、すでに6台の540Kを手掛けた豊富な経験を持つ、クラシックカーサービス社(メイン州オックスフォード)のクリス・チャールトンに託された。ボディの木骨こそ多少の交換が必要だったが、すべてのオリジナル・ボディパネルはそのまま使用が可能であった。ボディは再塗装のために塗料を完全に剥離しなければならなかったが、運転手席のドアに描かれた由緒あるフォン・クリーガー家の紋章は保存された。

作業の過程で、チーフ・メカニックのジャック・メリルはシャシークロスメンバーの位置が他の540Kモデルに比べ、150mmほど後方にあることに気がついた。理由は定かではないが、正規の型の位置に取り付けられているのに比べ、より優れた走行安定性を得ることが目的でないかと推測している。

外観上では、ヘッドランプ・レンズが500/540Kシリーズの特徴である球面レンズではなく、それ以前のSシリーズに装備されているものと同様の平面ガラスで、フランスで義務付けられているイエローバルブが用いられていた。 

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メルセデス540K スペシャル ロードスター
1936年メルセデス540Kスペシャルロードスター
エンジン形式:OHV 直列8気筒、ツインキャブレター(ダイムラー・ベンツ製)、ルーツタイプ・スーパーチャージャー(断続クラッチ付き)、
排気量:5401cc 最高出力:115PS/180PS(スーパーチャージャー作動時)
変速機:前進4段+後退1段、マニュアル(1〜3速:ノンシンクロメッシュ) 駆動方式:後輪駆動
操舵装置:ロック・トゥ・ロック:3.5回転 懸架装置(前):独立/ウィッシュボーン、コイル、油圧ダンパー
懸架装置(後):固定軸/リア: スウィングアクスル、コイル、コンペンセイター付き油圧ダンパー 制動装置:4輪ドラム、油圧式、バキュームサーボ付き
車両重量:2622kg 性能・最高速度:170km/h、0-100km/h 16.4秒

Words:David burgess-Wise / Photography:Mathieu Heurtault 編集翻訳:渡辺千香子(CK Transcreations Ltd.) Transcreation: Chikako WATANABE (CK Transcreations Ltd.)

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