伝説のドライバーが初めて手掛けたレーシングマシンの秘密

Photography: Paul Harmer 



1953年5月25日、スラクストンで行われた1200㏄のレースでスコット-ブラウンが優勝した。これを最後にリスターはトジェイロJAPを売却し、スコット-ブラウンとともにさらなる高みを目指す。購入したのはスコットランドの『Top Gear』誌(現代のテレビ番組とは無関係)の編集者ピーター・ヒューズだった。ヒューズはトジェイロJAPで1957年までレースに参戦。舞台は大半がスコットランドで、ヒルクライムでは何度か優勝し1958年に売却した。その翌年にヒューズは一般道での事故で亡くなり、同じ年にスコット-ブラウンもレース中の事故で命を落としている。

次にトジェイロを購入したのはダーラムのG.M.G. オリバーで、再登録してKPT2というナンバーを取得した。さらに1959年にはアリステア・デント・ハットンの手に渡り、3DPTで登録される。これが現在まで引き継がれているナンバーだ。車両登録証にはさらに9人のオーナーが記録されている。最後が1982年のフランク・ゴーレイで、再びスコットランドに持ち帰った。現オーナーのデビッド・リーが2009年にこの車を見付けたのもスコットランドだった。



その時点でシャシーは一部レストアを受けており、タイヤも揃って動く状態だった。また、16 ¾インチ(約425㎜)の大きなステアリングが高い位置に取り付けられていた。これをスコット-ブラウンが片手で操縦した。エンジンは英国フォード製ユニットをベースにした1172㏄に換装されていた。これはサイドバルブからOHVにコンバートしたものだ。これは3人目のオーナーであるオリバーがモディファイしたもので、この際に車両登録証の名称も"オリバー・スペシャル"に改められている。

トジェイロはデビッドの自宅に馬運搬用トラックに載せられて届いた。彼はさっそくオリジナルのリスター仕様に戻す作業に取りかかった。アルミ製ボディはレオミンスターのマーク・パリサーが当時の写真を元に造り直した。シャシーも"リバースエンジニアリング"、すなわち現品を採寸して複製品を製作する手法で、ジーノ・ホスキンスが製作した。シフトゲートも彼が造った。エンジンはJAP製Vツインのエキスパートであるデビッド・アンドリュースが手がけた。オリジナルのマグネシウム製クランクケースを温存し、新たにアルミニウムで鋳造した。すべてのレストアは、父ジョン・トジェイロの作品を登録・管理しているロビン・トジェイロから助言を受けて行われた。

2012年に無事に車検に合格した(灯火類がないので日中走行のみの条件つき)。ついにトジェイロJAPがサーキットに戻る日がやってきた。

60年の歳月を経ても競争力は衰えをみせず、さっそく9月8日にボーネスのヒルクライムでクラス優勝を果たした。11月5日のガイフォークスナイトには、ブライアン・リスターに車を見せて、前述した称賛の言葉を受けた。デビッドは2014年5月24日、シェルズリー・ウォルシュでのヒルクライムに出場し、1950年代の小排気量スポーツカーのクラスで見事優勝した。

また、デビッドの友人のクライブ・ウィルソンが2年前にカッスルクームのレースに出ている。この車の求める激しいドライビングスタイルで走ったところ、セットアップでいくつか改良点を発見し、それをデビッドが修正した。このレース中に右側のサイドミラーが外れて落ちた。なんと、取り付けていたリベットが振動で割れてしまったのだ。レストアされたトジェイロJAPの競技歴はこれだけである。あとはこのクレイジーなマシンを田舎道で飛ばして楽しんでいるという。デビッドは「パブまでの足に最高だよ」と笑う。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: John Simister 

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