ヴォアテュレット メルセデス・ベンツ W165 ─ただ1回の勝利のために|JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.12

メルセデスのヴォアテュレットW165。これは現在の姿。(courtesy:Daimler Museum/Archive)



国威・策略・電撃
1939年5月、ヨーロッパに戦雲が迫る不安の時代であった。4カ月後、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発する。

国威高揚の手段として、ナチス政権はグランプリ・レーシングを支援した。競争は結果を生む。ダイムラー・ベンツとアウトウニオン間の激闘は、ここでは触れないことにするが、1930年代後半、ドイツ勢はヨーロッパGPを席巻した。車両重量で制限する"重量フォーミュラ"から、"排気量フォーミュラ"への規則変更もタイガー戦車のように乗り越え突進した。フランス勢の太陽は陰り、イタリアも『その他、走った組』に追いやられていた。

現在のリビアの首都であるトリポリは、イスラム帝国、オスマン帝国領などの変遷を経て、1911年にイタリアの植民地となる。地中海の気候だが、7月から10月までは猛暑がつづく。

本国イタリアのモータースポーツ熱をトリポリ観光に持ち込もうと、1925年から仮設コースでグランプリを開催したが、事故や出場車数不足によるキャンセルで惨めな状況になる。しかし、トリポリ自動車クラブ会長はめげず、イタリア政府の植民地行事奨励資金を使い、ヨーロッパ型専用サーキットを建設した。空軍基地周囲の乾湖上に建設したサーキットは、全長13.14kmで、当時のヨーロッパ最速と言われた。

イタリアの主催クラブは、重量や排気量規則にとらわれない無制限フォーミュラ・リブレをトリポリの採用してきた。1933年はイタリアの英雄アキーレ・ヴァルツィが駆るブガッティ、34年には同じくヴァルツィのアルファ・ロメオが優勝したのは思惑通りだったろう。しかし、1934年から様相が一変、ドイツ2強の猛攻に晒されるようになった。1936年の優勝者がアウトウニオンに乗るヴァルツィだったのがせめてもの救いだったが、同年を除く1938年までのトリポリGPフォーミュラ・リブレは、シュトゥットガルトのシルバーアローとドイツ人ドライバー、ヘルマン・ラングとルドルフ・カラッツィオラの独走となる。

そこで、伊主催クラブは一計を案じた。ドイツ総力戦に嫌気がさしていた伊仏メーカー(そして小規模ながら英)とプライベート・チーム群は、次第にヴォアテュレットと呼ばれる1500ccフォーミュラに開発技術と資力をシフトするようになっていた。また、1940年からのGP規則もヴォアテュレット1.5リッターが採用されると予想された。一説によると、1938年9月11日のイタリアGPにおいて、伊モータースポーツ連盟会長は、ダイムラー・ベンツの名物監督、アルフレット・ノイバウアーに、翌年のトリポリGPはヴォアテュレット規則で開催されると告げたという。10カ月を切る短期間では、いかに彼らといえども、とても新型車を設計、製作、開発できるわけはないと、高を括っていたのだ。

シュトゥットガルトは、イタリア勢によるドイツ締め出し作戦に即反応した。緊急に収集された秘密会議において、新型車開発チームが発足した。主要メンバーは、3.0リッターV12GPカー、W154を手掛けたマックス・ザイラー、新1.5リッターV8エンジンはアルベルト・ヘス、車両がマックス・ヴァグナー、設計開発がルドルフ・ウーレンハウトという陣容だった。

彼らは、実質8カ月で、まったく新しいW165ヴォアテュレットを2台製作した。正確には、ヘルマン・ラングが乗る車は、トリポリへの船上で完成したという。先行したルドルフ・カラッツィオラの車は、ホッケンハイムでシェイクダウン走行を終えていた。

イタリアの策略に対し、銀の矢電撃が放たれる。

文:山口京一 Words: Jack YAMAGUCHI 写真:Daimler AG、山口京一 Photo:Daimler AG, Jack YAMAGUCHI

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