ヴォアテュレット メルセデス・ベンツ W165 ─ただ1回の勝利のために|JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.12

メルセデスのヴォアテュレットW165。これは現在の姿。(courtesy:Daimler Museum/Archive)



W165とライバル
W165の基本設計思想はW154 GPと共通する。フロントエンジン、後輪駆動、楕円形断面鋼管メインフレーム、前輪ダブルウィッシュボーン独立、コイルスプリング、油圧ダンパー。後輪がド・ディオン・アクスル、トーションバースプリング、油圧ダンパー。エンジンは水冷DOHCスーパーチャージド1.5リッターV8、公称最高出力254hpを発生。5段MTを用いた。アルミボディは、シルバーアローの伝統で、塗装なしの磨き上げだ。ダイムラー・ベンツ・ミュージアムに現在展示されているW165のシートは、タータンチェック柄ファブリックで、これは1950年代のSL、SLRなどに引き継がれる。

1939トリポリGPのエントリーは、ロト(宝くじ)賞金のため、最少30台に決められていた。スターティング・グリッドには興味がわく。アルファ・ロメオとマセラティは、最新モデルを投入してきた。アルファ・ロメオは、1938年にデビューしたティーポ158"アルフェッタ"を6台揃えた。マセラティは、デビュー戦となる4CLを4台、そのうちカーナンバー38ルイジ・ヴッロレージの車は、フルロードスター形ボディの"ストリームライナー"だ。マセラティのカスタマーカーの6CMと6CLが18台、そしてメルセデスW165が2台である。

アルファの158の数字は、1.5リッターと8気筒を表す。DOHCスーパーチャージド直列8気筒で、初期には1段過給型で200hpを発生した。戦後の1947年、アルファは改良型をグランプリに投入し、2段過給型の最高出力は350hpに達した。前がダブルトレーリングアーム、後がスイングアームで、前後ともに横置きリーフスプリングを用いる。アルファの傑作GPカーと認められている。

マセラティは、カスタマーカーを重視したコンストラクターであった。"最新"の4CLは、手堅さと先進性の興味ある組み合わせだ。エンジンは、今様にいうとダウン気筒数。先代となる6CMの直列6気筒に対し、直列4気筒は4バルブ化し、スーパーチャージャーの高圧化により6CMに比べて30hpアップの220hpを発生した。トランスミッションは4MTだ。

一方で6CM継承シャシーは、前ダブルウィッシュボーン、トーションバースプリング、後リースプリング支持リジッドアクスルで、前後ダンパーは摩擦板型である。

W165 グリッド2、3位、レース1-2フィニッシュ
メルセデス・ベンツ・チームを指揮するのは、戦前、戦後GP、スポーツカーレーシング名監督、そして感情爆発型として有名なアルフレット・ノイバウアー。写真でみる限り、まだ超巨漢ではなかった。プラクティスは高温、背後の砂漠からの砂風で始まる。メルセデス、アルファ・ロメオ、マセラティ・ワークスがプライベート勢を圧する。グリッド最速を出したのは2日目のルイジ・ヴッロレージのマセラティ4CL"ストリームライナー"で、最終セッションでも破られなかった。

路面温度最高50度、短期間の開発とレース準備では、メルセデス陣営も冷徹、時計の正確さというわけにはいかない。ルドルフ・カラツィオーラ、ヘルマン・ラングの仲も険悪になった。カラツィオーラの車は高加速度チューン、0.5mm細いトーションバースプリング、わずかにクイックなステアリング・セティングであった。ラングの車は、高い最高速度、太めのトーションバー、わずかにスローなステアリングなる差をつけた。

プラクティスでは、どちらが先に走るかで揉め、二人とも乗らない。ノイバウアーが噴火寸前で、総指揮者マックス・ザイラーが介入せざるを得なくなる。レース前夜の打ち合わせでは、またまたタイヤで喧嘩寸前。ザイラーがふたたび「8カ月の苦労を水に流すのか」と説得。非メルセデス的な人間ドラマが展開した。

レース当日は、日向では温度40度、路面50度の猛暑であった。29台グリッド(1台ノンスタタート)のフロントローを占めるのは、ポールのヴッロレージ/4CLストリームエライナー、ラング/W165、カラツィオーラ/W165、ジュゼッペ・ファリーナ158であった。

スタートには、イタリア流混乱があった。ラングがスタート直前にノイバウアーに向かって、合図はライトなのか、それとも頼りないマーシャルの旗なのかと質問した。ノイバウアーの巨体が往復し、「ライトだ」と答え、ラングが最高のスタートをすると、アルファからペナルティだと文句が上がった。ヴッロレージ/4CLはオイルを撒き、ギアボックスのスタックでピット、大幅に遅れ、圏外に去る。ラング、カラッツィオラの1-2行進が始まり、フィニッシュまで続いた。終末、ラングはカラツィオーラをラップせずにフィニッシュする。アルファ軍団も脱落が続くが、エミリオ・ヴッロレージが3位入賞する。マセラティ・ワークスには散々なレースとなり、かろうじて6CMが1台生き残る。

マセラティは4CL、後期型4CLTの改良の手を緩めず、大戦後のモータースポーツ再開期に大きな貢献をする。カスタマーのひとりが、アジア最初のGPドライバー、シャム王国(タイ)のビラ王子で、著書に「もっとも快適で愛するGPカー」と表現している。

1939年トリポリGPのグリッドの最後列に1台だけ並んだのがピエロ・タルッフィ/マセラティ6CMだ。モーターサイクル・レーシングと自ら設計した車で世界速度記録を樹立した。1939トリポリGPでは33歳のはず。4位でフィニッシュした。戦後、レーシングドライバーとして名を成し、日本のモーターレーシングのよき助言者となった、別名"シルヴァーフォックス"その人で、鈴鹿サーキット設計の監修者として来日した際に会い、その後に著書を送ってくれた。

ウーレンハウトが戦後に手掛けたW196Sスポーツレーシングカー試乗を許してくれた。夕立が迫っていたので、スーツ、ネクタイのまま。同乗指示してくれたのはファンジオのメカニック、ブンツ。(Yamaguchi)

文:山口京一 Words: Jack YAMAGUCHI 写真:Daimler AG、山口京一 Photo:Daimler AG, Jack YAMAGUCHI

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