「空を飛ぶバイク」英雄になったバイクの物語

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それは、それまでの自転車事業に加えてモーターサイクル事
業がスタートを切ったことも意味した。1901年のことである。「第一次世界大戦で、ロイヤル・エンフィールドは強力なオートバイを製造し、フランス、ベルギー、ロシア帝国、アメリカ、そして自国イギリスの各軍はこぞってそれを使用しました」と、ロイヤル・エンフィールドの歴史を研究するゴードン・メイは語る。「機械部分はとてつもなく頑丈でした。ロイヤル・エンフィールドはどのような土地にも順応し、耐久力があり、状況に応じて臨機応変に対応できることを示しました。そういった長所は第二次世界大戦でも十二分に活かされました」

戦争でどれだけ役に立ったのかを知るには、生産された台数を見ればよくわかる。フライング・フリーの注文台数8000 台を含めてロイヤル・エンフィールドはじつに4万5000台にも及ぶオートバイを生産したのだ。「同社は250ccと350cc のサイドバルブのエンジンを作りましたが、1 台だけ350ccのオーバーヘッドバルブ付きのバイクも作りました」と、メイは言う。



「250ccはトレーニング用のバ
イクでしたが、350ccは各駐屯地に指令を伝えるための急送バイクとして使われたんです。350ccは図体が大きかったので航空機から投げ落とすことはしませんでした」そのあたりがフライング・フリーと根本的に異なるところだ。Dデイに初めて姿を見せたフライング・フリーはいわゆる連合軍のマーケット・ガーデン作戦におけるアルンヘムの戦いで、その年の終わりまでハードに使われた。ちなみに、アルンヘムの戦いとは、連合軍がノルマンディーに上陸したのちにドイツに進撃しようとした途中、オランダで繰り広げられた激戦のことである。この戦いで連合軍は落下傘部隊による橋の確保を試みたが、ドイツ軍の激しい抵抗で多大な犠牲者を出し、作戦は失敗に終わった。犠牲者への哀悼と当時の戦いを後世に伝えるべく、戦後この地に空挺博物館が建てられている。

「多くの人々はそれを敗北といいますが、アルンヘムでは最
後まで勇敢に戦いました」と、ベーカーは言う。「1万人の兵士が橋の上の8〜10マイル上空から落下したんです。そして、オートバイはそのうちの何人かに目的達成を急ぐために与えられ、受け取った者は類い希な機動性を手に入れたのです」

何台かのフライング・フリーは対空攻撃によって破壊されたり、また何台かは着地の際の衝撃でダメージを受けたと記録に残されているが、大多数は着地に成功して、軍隊の大きな力となった。そして多くのフライング・フリーはノルマンディーからイギリスに帰ることさえできた。しかし、アルンヘムでは軍が孤立したことから何台かのフライング・フリーはドイツ軍の手に落ちて、破壊されたか彼らの足として使われた。

「実際、パラシュートのかごの多くはドイツ人によって回収され、
汽車に積まれてドイツに運ばれたんです。そう、溶かされた鉄は彼らの兵器として再利用されたんです」とメイは言う。「フライング・フリーも使い捨ての戦争道具だったんです」



やがて戦争は終結。生き残って本国に戻ったフライング・フリーは一般国民が使用するために第二の生涯を歩むことになる。戦後のイギリスでは、安くて信頼性のある乗り物が求められていた。そうしたなか、ロイヤル・エンフィールドは大いに期待に応えて、エンジンをリビルドし、黒く塗り直して一般市民に販売した。名称から"フライング"も外され、生産の主体がインドに移される1960年代初期まで、フリーとその派生車は生産され続けた。

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA  Word:Hugh Francis Anderson

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