キャデラックとブルーズミュージックを辿る旅│ルート61を行く

Photography: Martyn Goddard



マップを見つけるたびに止まっていては、1年あってもゴールに辿り着けない。ここは優先順位をつけなければ。そこでアンゴラのルイジアナ州刑務所はちらっと見るだけに留めた。この刑務所には、リード・ベリーの名で知られていたブルーズの生みの親、ハディ・レッドベターが収監されていたのだが、そのことをアメリカ議会図書館の音楽研究家であるジョン・ロマックスと息子のアランが見つけ出し、その存在を広く知らしめたことで有名だ。もっとも、ここはそれほど長居をしたくなる場所ではないので、南北戦争以前に作られたナチェズの美しいプランテーションに足を運んでみよう。こうして様々なところを訪ねてみると、その恐ろしいまでの対比に驚かされることになる。

途中で寄り道をしたにもかかわらず、順調にドライブできたこの日はインディアノーラまでやってくることができた。この街はデルタ地帯の地政学的な中心であるだけでなく、歴史的にも大きな役割を果たしてきた。ブルーズが誕生して間もない頃、重要とされる事件はほとんどこの半径50マイル(約80㎞)以内で起きた。



BBキングはインディアノーラで暮らしていたことがあり、マディ・ウォーターズは近くのストーヴァル・プランテーションで育ち、アラン・ロマックスがこの地で彼のレコーディングを行ったのは1941年のことだった。ベッシー・スミスが交通事故で命を落としたのはハイウェイ61のクラークスデイル付近。そしてロバート・ジョンソンはハイウェイ61とハイウェイ49が交わるクラークスデイルのクロスロードで悪魔に魂を売り渡したのである。

大切なことは、デルタ地帯に暮らす良識ある人々が、地帯のブルーズの伝統を守るとともに地元の経済を活性化するための活動を始めたことにある。この地域は、全米のなかでもとりわけ貧しいとして知られているが、ブルーズ・ツーリズムという形でメディアに紹介し、地元に好ましい影響を与えている。つまり、デルタ地帯は「ここから飛び出ていく」場所から、「多くの人々を呼び寄せる」場所に変貌しつつあるといえるだろう。ザ・ロフツからはクラークスデイルのダウンタウンが一望できるが、このホテルの一室は明らかに我が家よりも広いし、キッチンも立派だ。古いプランテーションの建物を利用したインディアノーラ・ブルー・ビスケット・バンガローは先ごろ移転したばかりだが、その場所は、訪れた者を感動させるBBキング博物館の向かい側にあたる。

さらに大切なのは、音楽を聴くための時間をたっぷりととっておくことだ。俳優のモーガン・フリーマンが共同オーナーを務めるグランド・ゼロは、いつもたくさんの人で賑わっている。私たちは、地元で人気のオールナイト・ロング・ブルーズ・バンドが演奏するデルタ/ミシシッピー・ヒルズ・サウンドを堪能したが、それはショーマンシップと素晴らしい音楽的才能が見事に融合したものだった。



もっとも、いまやめっきり数が減った、食事もできてダンスもできる安レストランを訪れる機会を見逃してはいけない。たとえば、メリゴールドのポー・モンキー(木曜日のみ営業)やクラークスデイルのレッズ・ラウンジなどだ。いくぶん物騒に思えるかもしれないが、実際にはとても安全な場所で、もしも運が良ければ「14歳の天才ギタリスト、クリストン"キングフィッシュ"イングラムがレッズ・ラウンジでプレイしているのを見たよ」と後日、友人に自慢できるかもしれない。

ひとつ覚えておいて欲しいのは、"レッド" は出演者の権利を守るのに熱心で、もしも許可なくビデオ収録していたとしたら、強くとがめられる恐れがある。ひょっとすると、彼らはまだYouTubeのことがよくわかっていないのかもしれない。イベントに関する最新情報を知りたいなら、クラークスデイルのキャット・ヘッドにロジャー・ストールを訪ねることをお勧めする。どこの劇場でどんなブルーズが聞けるか、たちどころにして教えてくれるはずだ。

さらに北上してメンフィスに着くと、なぜデルタ・ミュージックがカントリー・ブルーズと呼ばれていたのか、はっきりと理解できる。ビール・ストリートは文字どおり大都会で、まるで空港のセキュリティ・チェックのように、週末には警官が金属探知機を使った検問を行っている。それでも、ブルーズで賑わっている大都会はここメンフィスだけだろうし、フレンチ・クォーターではこれがビジネスの基本とされる。また、街は混み合っていても人々は行儀良く、そしてまた良き市民でもある(なんといっても私たちは南部の人間なのだ!)。BBキングがプロとして活動し始めたのがここメンフィスで、いまでもビール・ストリート最大のクラブを所有している。その近くにはサン・スタジオがあるが、ミシシッピー出身のエルヴィス・プレスリーはブルーズ・ファンだった若い頃に学んだことを、ここで自分の音楽として実践したのである。



スタジオといえば、個人的に興味を持っているのが、ここから150マイル(約240㎞)離れたアラバマ州マッスル・ショールズのフェイム・スタジオだ。1968年、デュアン・オールマンはここで自分の音を作り上げるのだが、スタジオで演奏するとき以外は小さな小屋にこもり続けていたという。テネシー生まれの白人で、髪を伸ばし、ヒッピーのような格好をしていたデュアンとグレッグの兄弟が結成したオールマン・ブラザースは、いわゆるサザン・ロックの先駆けとされるものだ。

けれども、南部生まれの貧しい白人である我々は、これがブルーズ以外の何物でもないことを知っていた。その数年後、デュアンはハーレーに乗っていて命を落としてしまうが、南部に住む貧しい白人や貧しい黒人にとって、彼の存在は学校の統合以上に両者を深く結びつける役割を果たした。こうした人種の壁を乗り越えようとする努力が、いまではデルタ地域でさえ普通に会話を交わすという果実をもたらしたといえる。

編集翻訳:大谷 達也 Transcreation: Tatsuya OTANI Words: Dale Drinnon 

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