デ・トマゾ・マングスタ|その名に込められた宿敵の存在とは?

Photography:Jamie Lipman

噂どおり、デ・トマゾ・マングスタは御しにくいスポーツカーだった。けれども、そのボディは並外れて美しい。私たちは、そのアクセラレーターをそっと踏み込んでみることにした。

車名は宿敵コブラの天敵から
エキゾティックなスポーツカーが機能的であったり効率的であったりする必要はない。もしも、そんなものを備えていたならば、それは滅多に手に入らないオマケだと思ってありがたく受け取っておけばいい。官能的で、ある意味不真面目で、そして大胆さが魅力とされるクルマについて、その正当性をくどくどと述べるのは不毛だ。ただ、その存在を称え、味わい尽くせばいい。でなければ、たった401台だけが生産され、派手なスタイリングが売り物のデ・トマゾ・マングスタを買う者など、誰もいないだろう。

率直にいって、よくある"あと知恵"ばかり目立つ自動車評論の基準に照らし合わせると、これはひどいクルマである。作りは大雑把だし、ドライビングには無理な体勢を強いられるし、ハンドリングが優れているともいえず、ちょっとした段差を乗り越えるにも不自由する。それでも、このクルマの相場は20万ポンド(3700万円)を越えている。完璧なコンディションのディーノに比べれば安いが、大した違いはない。では、なぜ人はマングスタに惹かれるのか? それは、A地点からB地点に移動するという機能のためではなく、おそらく美術品としてこのクルマを捉えているからだ。

そのような美術品が、しかも"走って"くれるのだから、これはボーナスというしかない。ここで紹介するのは、1969年に製造されて以来、勇敢で、ややマゾヒスト的な嗜好を持つふたりのオーナーにより9万6000マイル(約15万km)以上を走破した個体である。オドメーターの数字を1980年代までに8万マイル(約10万km)台へと伸ばした最初のオーナーは、わずかな量のオイルの追加まで記録する几帳面な人物だった。それはアルファベット順に並んだアドレス帳のような作りで、したがってQもしくはXの項には何も記されていないが、I(たとえばイグニッション)、S(サービス)、V(様々な種類のバルブ)、それにJ(ジャックシャフト。なにかのトラブルだったに違いない)にはいくつかの書き込みがあった。

アメリカでは1969年から自動車に対する規制が強化されたが、そこには例外規定もあって、販売台数が500台以下のモデルについては新しい規制の大半が適用外とされた。マングスタも初年度販売分に関してはこの例外措置が適用され、ふたりのオーナーはその恩恵に浴することとなった。

この芸術的なスタイリングはどうだろう? これは1960年代後半にジウジアーロの手で描かれたミド・エンジンのスーパーカーで、それだけでも手に入れる価値がある。この頃、ギアに勤務していたジョルジェットは、当初このデザインをビッザリーニに提案したが、同社はすでに財政難に陥っていたために計画は実現しなかった。

いっぽう、アルゼンチン出身の起業家であるアレハンドロ・デ・トマゾはマーケットの状況に違和感を覚えていた。彼は、ミウラのようなエキゾティック・マシーン、もしくはフェラーリ250 LMやフォードGT40といったレーシングカーに近いロードカーの生産を検討していたものの、エンジンは高価でメンテナンスに手間のかかるイタリア製V12ではなく、壊れにくいうえにパワフルなアメリカンV8の搭載を想定していた。これならアメリカのメカニックたちにもメンテナンスが可能で、信頼性も申し分ないから、きっと北米市場で成功を収めるはずと読んでいたのだ。

デザインはすでにあったうえ、デ・トマゾはフォード・コルティナGTの1.6リッターエンジンをミドに置いたヴァレルンガという比較的コンパクトなスポーツカーを生産していた。このシャシーをモディファイし、フォードV8を搭載したワンオフのオープントップ・レーサーに仕立てたのがデ・トマゾ・スポルト5000で、これは1965年のトリノ・ショーでデビューを飾った。そのアルミボディはアメリカ人のピート・ブロックが手がけたもので、特徴的な可変式リアウィングを備えていたほか、ミドに置かれたフォード289V8エンジンはキャロル・シェルビーのチューンにより最高出力が475bhpに引き上げられていた。

もっと写真を見る

編集翻訳:大谷 達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words:John Simister 

RECOMMENDEDおすすめの記事