追悼 ジャガーの伝説 ノーマン・デュイス

Photography:Paul Harmer



1968年当時、ジャガーは併合されていたブリティッシュ・レイランドによって濫費されてしまった感があった。ちょうど、後にベストセラーとなるXJ6の発表を終えた時期で、さらに名車EタイプをXJ-Sにすげ替えなければならないという問題も抱えていた。「ジャガーブランドは、ほとんど終わった厄介な大荷物に見えた」とは、デュイスの弁だ。それは全般を通して見ても難しい時代だった。アボットはこう回想している。

「1970年代のノーマンは、多くの時間をグループ内ミーテ
ィングに費やさなければなりませんでした。なぜならレイランドがグループ全体で検査を規格化しようとしたからです。たとえば、ジャガーはブレーキテストに独自のやり方を採用していましたし、誰もが自分の所の製品に合った方法でやっていたんです。ノーマンはあっちこっちのブランドのミーティングに顔を出していました。オースティン、モーリス、トライアンフ、ローバーなどなど。ノーマンは彼らが私たちに何を要求したかについて、常に立腹していました」

この空気は、1980年代にジョン・イーガンが着任し「大衆車であるミニと高級車ジャガーを同一のフィロソフィーで造ること自体に無理がある」と公言したことで変わり始めた。結局のところ、時のサッチャー政権下で初めての民営化を果たすことになるが、デュイスはそれまでにすでに会社が完全に変わってしまっていたことを思い出す。「会社はさらに多くの技術者を雇い入れ、それまでわしらが自分らでやっていたことをやらせた。人数が増え、コンパクトなチームだからこそできる仕事の感覚を失い始めていたんだ」

ジョン・イーガンの最初の大仕事は、完成の域にあり、ベストセラーゆえに1968年から18年間も継続されてきた主力サルーンXJのリニューアルだった。それは競合モデルに比べ、技術的旧態化が顕著になっていたのである。この新しいサルーンは社内開発コードでXJ40と呼ばれた。

「わしらがXJ40の開発を進めていた時は、ありゃあ、災難
だったさ、実に。だって、テスト車両を使おうと思ったら、事前に書類を何枚も作って、担当セクションを通さなきゃならんことになっていたんだ。昔は言ったもんだ。『車をさっさと持ってこい!テストに行くぞ!』そういえばよかった。だがな、あの頃は違った。あれを待て、これも待て⋯」

「わしらのところにローバー・ディビジョンからやってきた
のがいた。奴は書類屋だった。つまり真っ当な技術者じゃなかったんだ。わしがある日、自分のオフィスに行ったら、デスクに奴のメモがあった。『デュイス殿、私は依然として"何たらかんたらの書類"を待っています。すでに期限を5日過ぎています。24時間以内に提出してください』だとさ。奴は部屋にいた。わしはそこへ行って言ってやった。『なんのためにあんなメモをよこしたんじゃね?わしがそれをやろうとやるまいと、なぜ、あんたがそのことに時間を使うんだ?なぜ、わしが路上テストをしている間に女の子にタイプを打たせて書類を作らないんだ?』とな。彼は言ったよ。『我々は会社のシステムに従わなければなりません』とさ。『あんたは骨の髄からクソシステムだ!』とわしは言ったんだ。これが始まりなんだな」



テイラーが特に強調するのは、デュイスの歯に衣を着せない性格で、それはとどまるどころかますます勢いを増していた。

「好例はノーマンが私たちに教えたばかりではなく、彼自身が率先して問題提起した、『状況を正確に理解すべきだ』というメッセージでした。XJ40の発表が間近に迫ったある日、サー・ジョン・イーガンが招集した上級役員の会議があり、出席者たちは担当業務の完了期日をコミットしなければなりませんでした。すべての部門は立ち上がり期日を受け入れましたが、ノーマンだけは違いました。『ちょっと待った。わしらはできない』と。これで彼は憎まれ役となりましたが、彼は正しかったのです。『ちゃんと見てくれ。これが現状なんだ』と、彼は言うべきことは決して恐れたりせず主張したのです」

編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers) Transcreation:Kosaku KOISHIHARA( Ursus Page Makers) Words:James Page 

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