2台のスペシャル|1930年代ランチアV8レーシングカーの魅力を探る

GF Williams

ここに2台の1930年代ランチアV8レーシングカーがある。1台はディラムダ・サルーンからのコンバートで、もう1台は伝説のジャーナリスト、ロナルド・バーカーによる“ステディ・スペシャル”だ。試乗したジョン・シミスターが2台の魅力を語る。



車は生命のない物体だ。当然、政治的信条も持っていない。だから、このペールグリーンの機械に対してファシズムの支持者と責めることはできない。たとえベニート・ムッソリーニがそう考えていたとしても。ムッソリーニはこの1台を知っていたはずだ。これは、1938年のコッパ・ディ・ナターレで、27秒もの大差をつけて無過給機クラスを制したマシンなのである。レースの舞台はイタリアが誇る植民地、東アフリカのエリトリアで、そこに完璧な都市計画で建設された新市街地のアスマラ・ノヴァだった。イル・ドゥーチェはレースプログラムの巻頭言で、「Io ho per le strade una passioneromana」と述べている。「私は道にローマ人と同じ情熱を持っている」といった意味だろう。

このプログラムには、ファシズムへの賛美があふれていた。当時、ファシズムはイタリアのブランドであり、力と支配につながる道筋だった。いうまでもなく、出走車両はすべてイタリア製で、その中でランチアは1台だけだった。それが今回の主役だ。

1台きりのレーシングスペシャル


これはランチア・ディラムダだが、一般に知られているものとは異なる。標準のディラムダは、挟角の4リッターV8エンジンを搭載した大型のサルーンかクーペ、ツアラーで、レーシングカーらしさは欠片もない。だが、重いボディワークを剥ぎ取り、ホイールベースを2フィート7インチ(約63cm)短縮すれば、レーシングカーとしての可能性が見えてくる。加えて、フリーフローの排気システムと吸気量の多いキャブレターで、エンジンの吸排気を向上させてある。このシャシーナンバー“32-1077”は、元は第2シリーズのティーポ232ディラムダとして1933年に製造された。分かっている範囲では、レーシングカーになった唯一のディラムダである。少なくとも、エリトリアで唯一だったのは確かだ。それでも、コッパ・ディ・ナターレでステアリングを握ったフルヴィオ・フランチョージは、この上品なロードカー(リムジンにするオプションさえあった)をレーシングカーにするのはいいアイデアだと考えたらしい。



ひょっとしたらアスマラの代理店が仲介して、ランチアの競技部門がコンバートを認めたか、自ら製造したのだろうか。その答えを知る者はいないようだ。しかし、このディラムダがコッパ・ディ・ナターレをはじめとするエリトリアでのレースに挑む写真なら、何枚も残っている。スターティンググリッドについた姿や、コーナーでスピンしてライバルを巻き込んだときの姿、ラジエターカウルを失いながら激走する姿などだ。また、グレゴリ・ジジーノという人物が“ビラムダ”(原文ママ)をドライブしたと記された1枚もある。

コッパ・ディ・ナターレは1938年のクリスマスに開催され、その様子は『Corriere Eritreo』紙のスポーツ面で伝えられた。アスマラ・ノヴァは、エリトリアの首都アスマラの新市街で、1893年にできたイタリア軍基地から発展した。新しい建物や区画は、イタリアでもてはやされていた近代主義や合理主義のスタイルで設計され、1935年に建設が始まった。拡張された市街地は、あたかも同時代のイタリアの一部がそっくり南に移転したかのようだった。これを祝うのに、スピードを誇るイタリア車で自動車レースを開催する以上の方法はない。



だが、それも長くは続かなかった。第二次世界大戦が激しさを増す中、エリトリアは1941年からイギリスの支配下に置かれ、戦後は実質的にエチオピアに併合された。それから数多の戦乱を経て、1993年にようやく独立を成し遂げた。現在のアスマラは、華やかなアールデコの面影を残すとして、世界遺産に登録されている。では、レーシングカーとなったディラムダは、その後どうなったのだろうか。

戦禍を逃れたレーシング・ディラムダ


戦後、エリトリアに駐留したひとりのアメリカ兵がこのランチアを見つけて、母国に持ち帰った。以来ずっとアメリカに留まり、途中で2液型の赤のペイントを施された。2020年に、フェニックスグリーン・ガレージのニコラス・ベンウェルがイギリスへ運び、ウォルター・ヒール社と共同で保管していた。これを購入したのがジェームズ・ブラウンで、ウォルター・ヒールでレストアして、当時と同じセルロース塗料でオリジナルの色に戻し、きちんと走るよう整えた。そして、2022年にグッドウッド・メンバーズ・ミーティングに出走した。レースに向けたテスト走行もせず、当日は4速ギアを失ったため、出走したヴァルツィ・トロフィーでは苦戦を強いられた。このときは発揮できなかったが、ポテンシャルを秘めているのは間違いない。



今回ジェームズは、この唯一無二のマシンを試乗する機会を『Octane』に与えてくれた。ウォルター・ヒールには、変わったヒストリーを持つV8エンジンのランチアがもう1台あり、これも試してみては、ということになった。こうして私たちはウォルターのワークショップへやってきたのである。そこは華やかさとは無縁だが、本物の古艶が香り立つ場所だった。

“バーカーさん”のディラムダ


もう1台のランチアについては、以前に『Octane』で紹介している。2014年のことだ。私は、当時まだ創設間もないランチアのスペシャリスト兼レストアラーのソーンリー・ケラムで、“ステディ”ことロナルド・バーカーに会った。残念ながら今は亡きモータージャーナリストで、常識にとらわれない勇猛果敢な人だった。1950年代、ステディはヴィンテージ・スポーツカークラブ(VSCC)のレースに、ユニークなランチアのスポーツカーで出走していた。それは彼が自ら製造したマシンだった。ベースとなった1934年ランチア・アストゥーラは、これまた堂々たる車体を持ち、3リッターではあるがやはり挟角のV8エンジンを搭載していた。

アストゥーラの精巧な挟角のV8エンジン。

ステディはシャシーを3フィート1インチ(約94cm)短縮し、その際に、ラダーフレームに十字に組まれていたクロスメンバーをV字に変更した。そして、入手してあったアストンマーティンDB2/4の逆開きのボンネットと組み合わせられるように、フルワイドボディを造らせた。当時のVSCCは、今ほどオリジナリティにうるさくなかったのである。“ステディ・スペシャル”(別名“ショートアストゥーラ”)と名付けられたこの車は、サーキットやヒルクライムで数々の成功を収めたが、1958年にはマイケル・スコットに売却された。のちに業界団体のインターナショナル・ギルド・オブ・スペシャリスト・エンジニアズを設立した人物だ。

スコットは、ステディ・スペシャルでレースに出るつもりだったが、VSCCはルールを厳格化した。結局、1976年に売却し、その後 1990年に、ボディを失った状態でステディが買い戻した。ステディは、翌年にかけて車には手を付けずに、もっとふさわしい新たなボディのデザインをスケッチした。スコットは車を再び買い戻し、ボディがないにもかかわらず、大幅に高い金額を支払った。そして2012年まで、ステディが思い描いたボディを現実のものにする方法を調べていた(ステディ・スペシャルに関する年代は、その後の調査と新たに掘り起こした記憶を元に、以前の記事から一部変更した)。

3Dエンジニアズ社のスチュアート・ブラウンが、スケッチをコンピューター上で設計図に変換した。これを基に実物大の成形型と木型が造られ、ソーンリー・ケラムがボディを製作する準備が整った。こうして、アルミニウム製ボディが手作業で見事に成形された。レーシングカーらしい曲線美は、アルファロメオ8C 2300やライレー・インプを思わせる。前に訪問したときは、これをランニング・シャシーに架装したばかりで、私は恐る恐る中庭で運転させてもらった。ステディは出来栄えに大満足だと話していた。



プロジェクトが進むにつれて、費用はうなぎ上りに増えていった。作業は別のレストアラー、トラクション・シーバートに引き継がれ、そこでステディ・スペシャルはようやく完成した。以来、96エンジニアリングでメンテナンスを受け、ブガッティの専門知識で知られるアイヴァン・ダットンの指導の下、エンジンのリビルドを受けた。2013年の4月には、第80回のグッドウッド・メンバーズ・ミーティングにも出走している。そして今、積み上がった膨大なコストを回収するため、ステディ・スペシャルは売りに出されようとしていた。

編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.)

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