大成功を収めた鍵はグラスファイバー製の超軽量ボディ|美しき野獣、ポルシェ・カレラGTS 904【前編】

PORSCHE MUSEUM

カレラGTSは、ポルシェがスポーツカーレースに復帰する足がかりと作ったと同時に、その後の数十年におよぶモータースポーツ活動の道しるべとなったモデルである。その戦闘力の高さと美しい姿態について、マシュー・ヘイワードがリポートする。



これよりも美しいポルシェがかつてあっただろうか?シュトゥッツガルトのスポーツカーメーカーが世に送り出したモデルのなかで、ポルシェ・カレラGTSがもっとも美しいとする議論は長年にわたってエンスージャストたちを賑わせてきたが、その問いかけに対する答えは、実車を目の前にすればすぐに呑み込めるはず。全高 1065mmのミドシップ・クーペは、スリークで優雅な曲線美に包まれている。この車は、たったひとつの目的を達成するだけのために誕生した。それは"勝利"である。



そのスタイリングが、トリノあたりのカロッツェリアの手によるものと想像されるのも無理からぬことだろう。しかし、実際の作業を手がけたのはポルシェのデザイン部門。より厳密に申し上げるなら、フェルディナント・ポルシェの孫であたるフェルディナント・アレクサンダー“ブッツィ”ポルシェの作品ということになる。

ミドエンジンGTへの進出


1950年代後半、550や718に代表される軽量なミドエンジン・レーサーで数々の栄冠を勝ち取ったポルシェは、続いてF1に参戦する方針を固める。そしてモータースポーツの最高峰カテゴリーに集中するため、それまで挑んできた一連のスポーツカーレース活動はすべて凍結される。やがてポルシェは莫大な投資を行ってF1でトップクラスの実力を手に入れ、いくつかの好成績も残したが、1962年シーズンが終わると、F1以外のカテゴリーに再び参戦することを発表する。

ブッツィの父であるフェリー・ポルシェは、純粋にスポーツカーレースに復帰したいと願っていたのだ。そうすれば、顧客は世界最高と称されるロードカーを手に入れられるとともに、ル・マンにも再び参戦できる。それがフェリーの考えだったのだ。こうして、2リッター以下のグループ3クラスに挑む新型車の開発は直ちに開始された。

ブッツィが手がけるデザイン作業に反対したり注文をつけたりすることは、誰にも許されなかったが、おかげでごく短期間で作業は完了した。まったく新しいミドシップ・レーサーには、“新型”911のフラット6エンジンがツインプラグにチューニングして搭載される予定だった。開発期間は限られており、F1のために生み出されたテクノロジーが広範に採用された。たとえばフロントサスペンションは、不等長のダブルウィッシュボーンを含め、そのほとんどが804レーシングカーからの流用。いっぽう、リアサスペンションは専用のトレーリングアームに、アッパーウィッシュボーンを反転させて組み合わせたうえで、一体化されたスプリング・ダンパーユニットを左右それぞれに設けた。356Cとよく似たブレーキはATEのディスク式である。

ホモロゲーションを取得するには100台を生産しなければならなかったが、おかげでプライベートチームが購入し、904で世界中の様々なイベントに参戦することが可能になった。そのなかにはラリーさえ含まれていたほど。また、本来の目的は競技への参加にあったが、このニューモデルはロードカーとしても販売された。ただし、これまでのようなスペースフレーム・シャシーとアルミボディの組み合わせはコストが掛かりすぎるうえに生産性が低いので、ゲルハルト・シュレーダーが率いるチームはラダーフレーム・シャシーを新たに開発。グラスファイバー製ボディは航空機やマイクロカーのメーカーでもあるハインケル社に外注されることとなった。このボディは低コストなうえに生産性も高く、補修も容易なことが特徴だった。ボディはシャシーに接着されていたので、従来方式のスペースフレームよりも剛性はむしろ高いほど。ただし、グラスファイバーの厚みが一定しなかったため車重にはバラツキがあったが、レース仕様の場合、車重は650kgほどに留まった。

新エンジンが間に合わない


前述のとおり、当初はレース用にチューニングされた911のフラット6エンジンを搭載する計画だったが、これは1964年シーズンには間に合わなかった。そこで代わりに搭載されたのが、高度にチューニングされた“フール・マン”フラット4である。

550スパイダーや356カレラだけでなく、F2などのレーシングカーにも用いられたこのエンジンは信じられないほど先進的な設計で、4本のカムシャフトを備えたオールアルミ製だった。実際に904に搭載されたのは、1960年のアバルト・カレラGTLに積まれていた1.5リッター仕様を2リッターまで拡大したユニットで、真新しい 587/3はハンス・メッツガーが手を加えることにより、フルレース・トリムでは実に180bhpを生み出したほか、排気音が静かなロードカー仕様でさえ最高出力は155bhpに達した。そしてそのパワーはフルシンクロメッシュの5段ギアボックスを介して後輪へと導かれた。

開発中のモデルは社内でタイプ904と呼ばれていたが、ほどなく、3桁の数字で間に0を持つモデル名に対してはプジョーが商標権侵害で訴え出ることが明らかになる。ロードカーの901が発売直後に911と名称を改めたのはこのためだが、そこでタイプ 904もカレラGTSのバッジをつけて発売されることとなった。

そのデビュー戦は1964年3月に開催されたセブリング12時間で、プライベートチームにより合計5台がエントリー。そしてレイク・アンダーウッドをパートナーに迎えてレースを戦ったブリッグス・カニンガムは、総合9位と排気量3000cc以下のプロトタイプ・クラスでの優勝という戦績を挙げたのである。それは、この小さなクーペが秘めた大きな可能性を示すもので、1964年 4月までに必要な台数を生産すると、いよいよGTカーとしてのホモロゲーションを取得したのである。

同じ1964年4月、ポルシェ・ファクトリーチームが擁する2台の904は、過酷なことで知られるタルガ・フローリオに参戦するため、シシリアを目指していた。タイトなうえに曲がりくねった72kmのロードコースを10周するこのレースは、重く大きなマシンを走らせるライバルチームにとっては厳しい戦いだが、904にとってはむしろ好都合だった。

しかも、250LMのホモロゲーションを巡る問題でFIAと揉めていたスクデリア・フェラーリは、この年のタルガ・フローリオをボイコット。有力なプライベートチームが走らせる250GTOもギアボックス・トラブルでリタイアしたため、表彰台に上るチャンスは多くのチームに分け与えられることとなった。

そして4気筒エンジンを積む2台の 904をエントリーしたポルシェ・ファクトリーチームは大差で総合優勝を果たしただけでなく、もう1台も2位に食い込む大金星を挙げたのである。

904にトップカテゴリーで勝利を狙える大パワーはなかったが、ハンドリングのバランスは傑出していて、軽量設計がもたらすドライバビリティと信頼性の高さにより、重量級のマシンをしばしば打ち負かすことに成功した。このため、あの名高いフラット4エンジンを積んだモデルでも数々の大番狂わせを演じることになった。だが、ポルシェはこれだけでは飽き足らず、F1用に開発された最高出力240bhpのフラット8エンジンをファクトリーが所有する3台のプロトタイプに押し込み、打倒フェラーリを目指したのである。この究極のモデルは904/8と呼ばれ、3台のうちの1台が64年のタルガ・フローリオに挑んだが、メカニカル・トラブルに見舞われて優勝戦線から離脱していた。

1964年タルガ・フローリオでの栄冠を目指して疾走する904。ステアリングを握ったのはワークスドライバーのコリン・デイヴィスとアントニオ・プッチのふたり(Photo: Porsche)

いずれにせよ、世間の関心がル・マンに向けられていることは間違いなかった。そのスターティンググリッドには実に7台の904が並び、このうちの5台がフィニッシュラインを駆け抜けただけでなく、ギ・リジェとロベール・ブーシェが操ったプライベート・エントリーの1台は総合7位でフィニッシュして2.0リッターGTクラスの栄冠を勝ち取った。そして総合 8位にもプライベートチームの904が食い込んだほか、ファクトリーチームの 1台や他のプライベートチームが走らせる904も数周遅れでチェッカードフラッグを.い潜ったのである。もっとも、同じクラスを戦ったのはワークスカーのMBGだけで、そのドライバーのひとりがパディ・ホップカークだったことは特筆すべきだろう!ポルシェはさらに2台の904/8を出走させたが、どちらもメカニカル・トラブルのためフィニッシュラインには辿り着けなかった。

翌年、ポルシェは一段と戦線を強化する。この年、当初計画されていたフラット6エンジンが、ようやく904にも搭載されることとなったのだ。ファクトリーが正式に製作した6気筒仕様の904/6は7台のみで、このうちの2台は904/8とともにプロトタイプクラスに参戦。そしてフライホイールとクラッチのトラブルが繰り返し発生した904/8は、その対策としてエンジンがいくぶんデチューンされることとなった。これらにくわえて、4気筒エンジンを積むファクトリーカー1台も2.0GTクラスにエントリーした結果、ポルシェはひとつのレースを3つの異なるエンジンで戦う体制を築き上げたのである。驚くべきリスクヘッジといっても過言ではなかろう!この結果、65年のル・マンではヘルベルト・リンゲとピーター・ノッカーが駆る904/6が4位でフィニッシュ。信頼性で勝る904/4(ドライバーはゲルハルト・コフとアントン・フィッシュハーバー)に10周以上の大差をつけるとともに、プロトタイプとGTの両クラスで栄冠を勝ち取ったのである。いっぽうの 904/8は、またしても完走を逃していた。

同じ年、ポルシェはもちろんタルガ・フローリオにも挑み、904/6で3位に入賞。これを上回る2位に滑り込んだのは、904/8を大改修して作り上げたオープントップの904ベルクスパイダーで、その最大の特徴は圧倒的な軽さにあった。このベルクスパイダーをきっかけとして、カスタマーフレンドリーな904クーペとは異なる方向にポルシェは歩み始めることとなる。それは同社のモータースポーツ活動の大転換を意味するものだったが、その後も数年間にわたり、数多くのプライベートチームが904で善戦したことは広く知られているとおりである。

・・・【後編】に続く


編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI
Words:Matthew Hayward Photography:Tim Scott
THANKS TO Taylor and Crawley Ltd, taylorandcrawley.com

オクタン日本版編集部

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