オースティン7、シボレーM8D…マクラーレンを象徴する名車と50周年記念モデル

ブルース・マクラーレンのオースティン7

すべてはブルース・マクラーレンの小さなオースティン・セブン・レーサーから始まった。彼らは今、フェラーリに次ぐレース界のビッグネームであり、スーパーカーを製造する有名メーカーでもある。この半世紀の間に輝いたマクラーレンのスターたちを振り返る2013年に50周年を迎えたマクラーレン。新しい歴史はもう始まっている

マクラーレン黄金期の再来
現代のモーターレーシングの最前線にセンチメンタリズムが入り込む余地はない。勝利の月桂冠を飾るスペースもない。とはいえ、勝利を逃すと身体に痛みを感じると語ったロン・デニス率いるあのマクラーレンにしても、50年という大きな節目ならば少々の追憶に浸ったとしても許されるのではないだろうか。

過去半世紀にわたって、マクラーレンはグランプリで通算182勝、ドライバーズ・タイトル12回、コンストラクターズ・タイトル8回、さらにはインディー500での3勝、5度のカンナム・シリーズタイトル、ル・マン24時間レース総合優勝という輝かしい成績を残している。もちろん、素晴らしいロードカーを作っていることも忘れるわけにはいかない。

サー・ノーマン・フォスター設計による一部の隙もないウォキング・テクノロジー・センターは、1963年の9月にブルース・マクラーレン・モーターレーシングLtdが産声を上げたニューモールデンの簡素な建物とは違う星の建物のようだ。今やマクラーレンはその事業領域をスーパーカー生産からエレクトロニクスまでへと拡大している。スポーツカー・レースに参加するためにクーパーをベースにした.ジーレックス・スペシャル.を仕立てるショップを開いた26歳のニュージーランド人にはとても想像できなかったはずだ。

ブルース・マクラーレンは陽気な顔の背後に、静かな、だが断固とした意思を持つ男だった。子供のころ、片方の足が短いというハンデのために、数カ月間足を引っ張った状態で過ごすことに耐えたという。ドライバーとしては、オースティン7スペシャルから当時としては最年少のグランプリウィナーへと上り詰め、コンストラクターとしてはM2Bを1966年のモナコGPに出走させた時にトップレベルにステップアップしたと言えるだろう。1966年のブランズハッチ (イギリスGP)では、イタリア製のセレニッシマ・エンジンを搭載して初のコンストラクターズ・ポイントを獲得、その後1968年スパで自身がM7Aを駆って初優勝を遂げている。

1970年6月2日、グッドウッドのテスト中にブルースが事故死した悲劇の後も、ペンシルバニア出身のテディ・メイヤーが参画したことでチームは生き延びた。法律を学んだメイヤーはいわば商売上手でチームを新たな方向へ導き、エマーソン・フィッティパルディとジェームス・ハントがドライバーズ・タイトルを手にした。その後、スポンサーのマルボロが主導してチームとロン・デニスの野心的な"プロジェクト4"計画を合流させ、1980年代を迎えるとともにマクラーレンの名前は再び輝きを放つようになった。

現在マクラーレンは、宿命のライバルとも言えるフェラーリとサーキットだけでなくショールームでも闘っている。F1では低迷していると言わざるをえないが、2015年にはホンダ・パワーが復帰する。再びマクラーレンの黄金期を期待して当然ではないだろうか。


ブルース・マクラーレンのオースティン7
この小さなオースティン7スペシャルこそ、ひとりのグランプリドライバーのみならず、世界選手権の勝利数でフェラーリに次ぐフォーミュラ1チームの礎となった車である。レス・マクラーレンが、ちょっとした儲けを見込んでバラバラの状態で手に入れたものだが、結果的に彼の息子のブルースの初めてのレーシングカーとなり、その人生を変えることになった。

1929年式7アルスターは、1952年にオークランドのマクラーレン家にロープで牽かれてやって来た。マクラーレン・シニアは110ドルで買ったその車を修理して転売するつもりでいたが、しかし13歳のブルースが売らないように父親にせがんだ。その結果、未来のレーシングドライバー兼コンストラクターは車に関するあらゆることを学ぶことができた。オースティンが走るようになると、ブルースは裏庭をミニ・サーキットに改造し、そこでドライビング技術を磨いたのである。

15歳の誕生日を迎えて運転免許試験にパスするや、ブルースはムリワイ・ビーチのヒルクライムに出かけ、750ccクラスのファステストタイムを記録した。それから3年ほどの間に、小さなオースティンはどんどん改良され、軽量化されていった。SUキャブレターに合うマニフォールドなどいくつかのパーツを自製するほどで、さらにカウンターステアを容易にするためにリアスプリングをフラットに変え、フロントのバネは車高を低くするために裏返しに取り付けられた。もともとの19インチホイールは、前輪16インチ/後輪17インチに交換、ボディのリアエンドを伸ばしてボートテール型に改造された。一通り満足した時、オースティンは87mphを出せるようになっていたという。

このオースティンは長年、ニュージーランド南島の小さなミュージアムに収められていたが、1989年にマクラーレン・グループが手に入れてレストアを施した。2010年のグッドウッド・フェスティバルに参加したことがあるが、普段はマクラーレン・テクノロジー・センターの大通りに、本格的なシングルシーターやスポーツカーと並んで飾られている。場違いに感じる人もいるかもしれないが、マクラーレンにおいては他の車と比べられないほど重要な存在なのである。


大河の最初の一滴。10代のブルース・マクラーレンは、父親がガラクタ同然の状態で買ってきたこの小さなオースティン7をリビルドすることによって、レースとレーシングカー製作の魔法を学んだ。華々しいレーシングカーと並んで、ウォキングのヘッドクオーターに展示されている

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